浅倉 望 ①

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浅倉 望 ①

 ぼんやりとした赤い証明が灯り熱気がこもる部屋、その中心に据えられたベッドからは熱気がこめられた女性の声がする。それは言葉と呼ぶにはあまりに荒々しく、咆哮と呼ぶにはあまりにも希望を口にする。本来、動物の一種でしかない人間がもっとも本能的なヒトの姿に近づく時間。時間の流れすら感じさせない部屋では一糸纏わぬ男女が本能のままに溶け合っていた。  荒い息遣いは人間特有の知性など感じさせず、ただそこに存在する快楽を貪り食らう獣の呻きに近い。愛があるとも思えず、ただ種を蒔きたいもの、種が欲しいもの。種としての本能だけがこの部屋の空気を覆い尽くしている。  声の主、女の方は【浅倉 望】。今日、二十八になったばかりだ。そんな彼女は、肩甲骨の辺りまで伸ばした黒髪が激しく揺れるほどに生を感じていた。  対する男の方は【永山 浩一】。今年四十六になる。歳の割に体つきがしっかりとしており、腹も出ていない。学生時代、サッカーに打ち込み、現在も仲間内で月に一度はやっているからだろう。  二人の関係は一言でいえば不倫である。同じ会社に勤めており縁あって、といったところか。浩一の方が既婚者であり、望はそれを知った上で……いや、知っているからこそ浩一との関係にのめり込んでいる。  望は元来、男女関係に興味がなかった。肉体的なことではなく、恋愛、付き合うということに意義を感じられなかった。少女漫画を読んでいた年頃の時もいまいち感情移入出来ず、親が見ていた連ドラを一緒に観ていても滑稽に感じてしまう。勿論流行りの曲のように好きだ嫌いだと言われてもやはりピンとこない。  では、一度も交際経験が無いかと言えばそうでもない。大学時代、サークルの先輩に告白されて試しに付き合ってみたことがある。しかし、やはりどこか居心地が悪く二ヶ月ほどで別れを告げた。  そんな彼女がなぜ不倫に走ったのか。それはやはり人間は本来、ヒトであるということであろう。心の底から沸々と沸き上がる性的欲求を満たすためだ。この男、浩一は家庭を棄てる気など毛頭ない。それでも外で遊ぶ相手を欲しがっており、ある意味利害が一致していた。ちなみに、誕生日に会ったのはたまたまだ。二十八にもなると誕生日など、今さら大したイベントではない。そもそも浩一には教えていなかった。会社から五駅離れた駅で乗り換えて、さらに二駅進んだ駅で待ち合わせ、そこで別れる。それだけの関係でしかない。  情事が済み、浩一が煙草に火を点ける。終わって一言も無く、すぐに煙草を吸う浩一のことをありがたく思っている。イチャイチャするピロートークなど望は求めていない。ただただ、言葉もなく全ての感情が煙に変わる、そんな今の時間が好きで好きでたまらない。  最初に声をかけてきたのは浩一だった。同じ会社とはいえ部署が違うため、お互い顔は知っている程度の関係だった。その時点では既婚者であることも知らなかった。いや、指輪はしていたのだが瑞香にとって興味を持つ対象ではなかった。そんな二人が接近するきっかけは社員食堂である。とある春の日、新入社員達が配属されたその日は普段とはうってかわって食堂が混みあっていた。  普段、望は弁当を持参していたのだがたまたまその日は、朝珍しく寝坊し用意する時間もなかった。仕方なく食堂へ足を運べば満員で座るところなどない。昼休みをずらそうにも昼一で来客があるためずらせない。困っているところに声をかけ、向かいの席に促したのが浩一である。  たまの食堂だからと好物を頼んだことを後悔した。顔見知り程度の相手とはいえオムライスでは子供っぽいだろうか? しかし好きなものは好きだから仕方ない。諦めて望は浩一に会釈し、向かいに腰かけた。  黙々と食べさっさと食堂を出るつもりでいたが、浩一にオムライスのことを触れられてしまった。しかし、予想に反し子供っぽいなどと弄られることもなく、同じく浩一もオムライスが好きで奥さんにいつも弄られているとのことだった。それからオススメのオムライスの店の話にはじまり、子供の誕生日が近く何を贈ろうか考えているなど家庭に踏み入るような話になっていった。  望からすれば、浩一は話してみると案外気さくで久しぶりに弾んだ会話をした気がしていた。事実、彼女は同僚とあまり雑談をしないし友人も多い方ではない。昼休み明け、心に流れた清涼感が心地よく、たまには食堂もいいものだと思いながら午後の業務に戻った。  それを機に二人は社内で会えば軽い雑談を交わすようになった。それと同時に浩一に関する悪評も耳に入るようになる。飲みに行けば店の女の子を誰彼構わず口説き、仕事で出会う他社の女性をプライベートで食事に誘い、かつて同じ部署だった女子社員には手を出した挙げ句、出来たら堕ろさせて棄てたなど、真偽のほどは定かではないが悪逆無道の数々の噂。  望のことを心配した社員達からの忠告のようなものだろう。しかし、望からすればそれはどうでもいいものだった。特別な想いを抱いているわけでもないし、これから先、抱くこともない。それに噂だけで決めつけるのも相手に悪い。  周りは忠告するものの、それでも変わらず浩一と接する望に対し、やがて勝手な噂が立つようになる。既に寝ていて虜にされている、実は副業で飲み屋のスタッフをしていて浩一は客である。等々様々な噂が。  直接言われることこそないものの、そのような噂が立てられていることは望の耳にも入っていた。反吐が出るほど下衆い同僚に辟易することもある。しかしわざわざ否定してまわるのもめんどくさい。  そうやって放置していると、悪質なウイルスの如く噂が広がっていくのを、肌で感じ取っている。そんなある日、浩一からたまには外食でもどうかと呼び出された。呼び出されたのは会社から徒歩十分ほどの鄙びた洋食屋である。  令和の時代に残った昭和の香り。無口なマスターにオムライスを注文すると、整えられた口髭を僅かに動かし調理を始めた。初めて来る店だったがこの雰囲気が望は好きで気に入った。全体的にシックな色合いの木で統一されたテーブルや机、カウンターには見たこともない小瓶が並んでいた。おそらく調味料だろうか? 辺りを眺めていると浩一が口を開いた。  内容は至ってシンプル、内角を鋭く突く直球のようにズバッと言玉を投げつけてくる。それは、噂されるもの同士、いっそのこと現実にしないかというものだった。  普通なら妻子あるものがそう言えば最低に感じるだろう。望も、わざわざ不貞行為など荷担する気はなかった。なかったのに、心ではなく体が求めてしまった。その夜、二人はホテルへと向かい、本能のままに激情を燃やした。何度も何度も、お互いの求めている欠片を探るように。  こうして、二人は沼にハマってしまう。そしてそれは、決して去るものを許さない、もがいても足掻いても引きずり込んでいく日々の始まりだった。
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