浅倉 望 ②

1/1
前へ
/12ページ
次へ

浅倉 望 ②

 望と浩一、二人の秘密の関係が始まって三ヶ月が過ぎようとしていた。その間、仕事の都合にも左右されるが週三回程度のペースで逢瀬を重ね、非日常が日常と混ざりあい日々を灰色の空気が包み込んでいる。  望としては浩一との関わり方に不満はなかった。スモークを貼ったガラスのように、見えそうで見えない浩一の心。アクリル板で囲んだように、決して深入りを許さない浩一の心。  ある意味、本能という原始的な部分のみをくすぐりあう関係は、こと男女関係において最も純粋な姿かもしれない。煩わしいことなど頭の奥にしまいこみ、体を重ねることの意味。  本能の一つである性的欲求の解消を浩一に一任していた望は、必要以上に関わることをしない今の状況に満足している。  もし、付き合うだとか結婚だとかいう流れを少しでも見せられたら迷わず終わりを選ぶだろう。もし、部屋に来たいなんて言われたら迷わず終わりを選ぶだろう。もし、プレゼントなんて渡されたら迷わず終わりを選ぶだろう。  深入りなどしたくない。なぜ人は、いや、他人は、他者に対して心での結び付きを求めるのか理解が出来なかった。黒くどんよりした日々は重すぎる上に先が見えなくて嫌だ、明るく白みがかった日々は自分の良いところ悪いところ、他者の良いところ悪いところを白日の元に晒しそうで嫌だ。灰色の日々こそ面倒ごともなく居心地がいいのだ。  しかし、日々は常にその姿を変える。様々な動物が進化してきたように、環境に適応した変化を続けてきたように、時間も移ろいゆく。  望は、いつものように浩一と逢うべく駅へと向かっていた。今日はことさら、混雑しており一本、乗り換えが遅れてしまい、着いた瞬間駆け出した。  なぜ自分は走っているのだろう? そんなに逢いたいのか、そんなに楽しみなのか。そんな想いを片隅に置き去りにするかのように。  少し走ったところで誰かが後ろから追いかけてくる気配を感じる。振り返ると、そこには眼鏡をかけた気品のある中年くらいの女性が息を小刻みにし、安堵の表情をしている。  なんて澄んだ雰囲気をした人だろうか。望が見惚れていると女性は、見覚えのある財布を差し出してきた。それは望が就職を決めた際に、今は亡き祖母に買ってもらった財布であった。どうやら走っている際に落としたのを追いかけて届けてくれたようだ。  大のおばあちゃんっ子だった望にとってこの財布は、今は亡き祖母との繋がりの証、大事なものなので言葉では言い切れないほどの謝意を覚え、深々と頭を下げ礼を述べた。  女性はその優しい瞳で望を見つめ、気にすることなどないとだけ告げ、踵を返し構内へ戻っていく。その後ろ姿にも気品があり、またも見惚れてしまった。  しかし、待ち合わせの時間が迫っていることもあり、女性の姿が見えなくなると同時に望も待ち合わせ場所へ向かう。今日はいつもと違い、駅から十分ほどの喫茶店を指定されていた。浩一のことだから美味しいオムライスの店でも見つけたのだろうか?   駅前大通りを直進し、二つ目の交差点を右に曲がり、左手にある小路へ入ったところにある喫茶店『incontrare』へと入る。店名、店先の立て看板を見る限りイタリア料理も提供してくれる店のようだ。  ドアを開くと同時に鳴る鐘の音、それを合図に奥の席から浩一が立ち上がり頭を下げる。そして、浩一の向かいの席にいた見知らぬ女性も立ち上がり頭を下げる。望は一瞬、困惑したものの察する。おそらく……浩一の奥様だろう。  出迎えてくれた店員には待ち合わせだと告げ、一つ息を飲み席へと向かう。自らの身に、修羅場などというものが訪れるなど……。勿論その可能性は想像していなかったわけではないが、いざ来ると小心翼々となってしまう。  奥様らしき女性に促され、浩一の隣に腰かけ互いに会釈を交わすと、不意を突くように突然、しかし案の定、浩一の妻だと告げられてしまった。奥様の名前は【永山 真奈美】と呼ぶらしい。肩まで伸びた黒髪が印象に残るくらいで、正直パッとしないというのが望が抱いた感想だった。教師の仕事をしているらしいが激務故か、仕事柄かメイクは薄めになっている。  真奈美は浩一と望の関係について問いただしてきた。言葉だけではなく数枚の写真と共に。どうやら元々女癖の悪い浩一の行いを疑っており、探偵に素行調査も依頼していたようだ。  望は言うべき言葉が浮かばなくなった。というより、頭の中が密閉された空箱状態になり、何も入らず、何も出てこずという状況になっている。浩一は浩一で何も発せず、ただ唇を噛みしめ俯いている。そして真奈美はそんな二人を睨めつけている。  店内には数組の客がいたはずだが、まるで辺り一面に誰もいない、数メートル先の席のカップルすら見えないほど遠く感じてしまう。ただただ修羅場に三人だけがいる空間と化したようだった。  望も浩一も黙っている……そんな状況が続いたとき、突然望の髪を、顔を切り裂くような冷たさが走った。どうやら痺れを切らした真奈美が、グラスに入った水をかけてきたようだ。そこで望も我に返り、真奈美をじっと見つめた。  真奈美の目は真っ赤になり、頬を滴が伝っていく。馬鹿にしないでと叫ぶその声に、店内の客達が一斉に振り向き好奇の目を向けてくる。  いたたまれないとはこのことだろうか。しかし自分が蒔いた種でもあるので謝らなければ。そう思えば思うほど言葉が詰まっていく。まるで栓をされたホースのように言葉がどんどん、喉に溜まっていく。もし栓が外れたら一体どれほどの言葉がどれほどの勢いで出てくるのだろう。行き場はあるのに行けない言葉達はどのタイミングで死ぬのだろうか。  望にトドメをさしたのはよりによって浩一であった。彼は望に対し、ごめんとだけ言い残し席を立つ。興奮冷めやらぬ真奈美の手を引き、店外へと向かう浩一の背を見送る望は、世界に一人だけになるような感覚に包まれていた。 
/12ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加