浅倉 望 ③

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浅倉 望 ③

 一人喫茶店に取り残された望は、怒りにも絶望にもなりきれない靄に包まれていた。なぜ私はこんなところで惨めな姿を、醜態を晒しているのだろう。本当なら今頃は浩一と二人で楽しんでいたはずなのに。なぜ、浩一はここにいないのだろう。靄に包まれた心は歪な形へと変わっていく。  申し訳なさそうに店員が話しかけてくる。しかし、その声は届いていないようだ。窓から見えるカップルはこの世の春を謳歌しているような雰囲気を、部活帰りであろう男子学生達は今この瞬間を永遠に刻み付けようと、家族連れは穏やかな海にも似た包み込むような優しさを携えている。それは、生と呼ばれるものなのかもしれない。  対照的に望の放つオーラは、陽の当たらぬ場所で芽吹いてしまった花のように誰にも愛してもらえず、永久凍土に閉じ込められた生物のように『全て』を冷気のような絶望が包み込んでいた。  そして、何より望が不思議に思っているのは、なぜこれほどに絶望しているのかということだった。別に浩一に恋したわけではない、互いに都合が良かっただけ。それほど都合のいい相手にまた巡り会えるかも含めて惜しんでいるのか? いや、惜しんでいるにしても悲しみが襲ってくるのはおかしい。一体なぜだろう?  途方にくれたまま窓を見続けていると徐々に、その向こうの世界がテレビのモニターに映し出された世界にも思えるようになってきた。そうだ、私は今ドラマを見ていたんだ、これは現実ではないんだ。  心が、望の周りだけを囲う部屋を作り出していた。  いつの間にか窓の外は陽が消え、闇色に染まっている。店内にも疎らに客がいるだけで閑散としていた。時刻は午後8時半を迎えようかという頃、相も変わらず窓の外の『映像』を眺めていた望に聞きなれない声が投げ掛けられた。  それはとても澄んでいて、とても穏やかでまるで瀬戸内海を彷彿とさせる空気を纏っていた。瀬戸内を臨む地で生まれ育った望にとって、遺伝子レベルで体に刻み込まれた潮の香りが鼻腔を刺激する。  目を開けると、そこにいたのは栗色の髪があちこちゆるやかに弧を描く髪型をした青年だった。エプロンを身に付けているところから見ても、おそらくは店員だろう。青年は望の目を見て、改めて言葉を紡ぐ。それは、『たまたま』余った食材で料理の練習をしたから良かったら食べないか?とのことだった。  予想外の申し出に心を宙に放り出された気分になったが、言われてみると空腹を感じてきてしまう。ここまでのことも現実なのだと改めて痛感させられる。  しかし簡単にそんな申し出を受けてしまうのも申し訳ない。そう思い、一度は遠慮するも結局押しきられてしまった。それならそれで、どんな料理が出てくるかとワクワクしてしまい、己を恥じる。  目の前に置かれた皿には骨付きの肉が乗っている。どうやら煮込み料理のようだ。一体なんの肉だろうか? 望はそこまで料理に詳しいわけでもないので判断がつかなかった。  先ほどの青年はカウンターの奥に戻っていったようだ。『一人きりの世界』で、望は肉を切り始めた。スプーンを当てた瞬間、その柔らかな身は羽毛のように沈みこみ、スプーンを入れた瞬間、スッと下まで切れていく。よく煮込まれているのだろう。生まれた一切れからは肉が持つ芳醇な香りが漂い鼻を刺激する。大袈裟でなく生を感じるほどの匂い。その一切れを口に運ぶ。  瞬く間に広がるのはバターのまろやかな風味、そしてほのかに広がる爽やかなレモンの風味。  望は、初めて食べる料理の虜になっていた。料理とはこうも簡単に人の感情を包み込みその色を変えさせてしまうのか。きっと表情にもその幸福感が表れていたのだろう。カウンターでカップの片付けをしていた先ほどの青年が柔らかな笑みを携え望のことを見ていた。  その視線に気づいた望は急激に赤面し、意識を料理に向ける。体温の上昇を感じるが、きっと温かい料理のせいだろうと自分に言い聞かせる。  完食し一息ついた頃には時計の針は九時を示していた。結局そのまんま一心不乱にスプーンを運び、その味を堪能しては幸福に包まれてを繰り返していた。  会計をしたのち、青年に礼を述べると彼はやはりその優しい眼差しで送り出してくれた。  地獄に突き落とされたような冥い日だったのが、一転してまばゆいほど白く輝く日になったようだった。人の1日とは、かくもあっさりと幸福と不幸の境界を越えていくのか。  例え一秒前であろうと過去は過去。今が幸せならそれだけが事実として存在するのだろう。  翌日、望は会社に退職願を提出した。あてがあるわけではない。ただ、固定観念を壊したくなった、それだけだった。  幸い、蓄えはそれなりにあるので楽観視しているところもあるが、ある意味あの眼を知ってしまったからこそ改めて『過去』を『今』にしなくなった。  会社からは慰留されたが、一度辞めると決めた以上貫くことを決め二週間勤務後、有給消化をして退職するという流れになった。  浩一は望を見かけると申し訳なさそうに下を見てやり過ごす。虫酸が走った。こんな男に感情を振り回されたのがたまらなく癪に触ったが、その関係を始めたのは望自身なので何もなかったかのように目の前を過ぎる他になかった。  そう、浩一と望の関係は罪である。ではそれに対する罰はなんなのだろう? 誰が決めるのだろう? 誰が下すのだろう?   確かに浩一と望の関係は過去に存在していた。その結果として傷も負った。しかし勝手に始めて、勝手に傷ついたことを罰とは呼ばないだろう。  なにより、やったことは過去ではあるが事実として残っているのだと思う。そうなると誰にも責任などとれやしない。本当に責任を取るのなら過去を書き換えないとならないのだ。  そんな事を考えながら1日の仕事が終わった。今日もあの味が食べたい、そう思い彼女の足はあの店へと向かう。  店では、先日、料理をサービスしてくれた青年が出迎えてくれた。今日は店内も人がまばらで暇をしていたところだと笑いながら。その笑みはどこまでの優しさを蓄えているのだろう。  その顔を優しさに触れた瞬間、望は自分ですら思ってもいなかった台詞を口走った。 「今度、私と瀬戸内の海を見に行きませんか?」
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