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浅倉 望 エピローグ
女の名は【浅倉 望】、男の名は【篠原 和己】。
二人は広島県呉市の地に立ち海を臨んでいた。その海は穏やかな波を立てている、それは心地よいリズムを刻み、まるで歌っているようだ。
三週間前、望が突然、和己のことをこの地に誘った。本当は一人で帰省して眺めるつもりだったのに。
和己は数秒間思惟を巡らせたのち、頷いた。その結果、二人は今ここに並んでいる。
望は初めて和己にあったとき、その眼にこの優しい瀬戸内の海を重ねた。とても穏やかでありながら、生身の人間がその最深部に立ち入ることを許さないその眼の持ち主にとても興味を惹かれた。それは、望にとって初めてのことであった。
和己は話がそんなに上手い方ではないが、とても聞き上手で気づけばどんどん望の話を引き出し共感や意見をくれたりした。安心したところで、思いきって彼に訊ねてみた。なぜ、ついてきてくれたのかと。
数秒の沈黙が流れた。その間も海は歌うことを止めない。少しずつ朱色に染まりゆく海を横目に二人は互いを見ていた。
財布……とだけ和己は口にし、続けた。
「君の財布に見覚えがあって。何年か前、うちの母がオーダーメイドで色々作る仕事をしていたんだ。その時にあの財布を作っていた記憶があってね。依頼してきた人も一度だけ会ったけど、優しそうなお婆さんが『孫が社会に出るまで生きていられないかもしれない。だから、少しでも側で見守ってあげられるように財布をあげたいの』って言っててさ」
望は祖母が財布をくれたエピソードを初めて知った。そこまで考えていてくれたのか……。今更ながら祖母の愛が胸に流れ込んでくる。
「まぁ、それも確かに十二年くらい前だったかな? その財布が、今君の持ってる財布だったんだ。それほど愛されてきた人がどういう人か気になってね」
望は衝撃を受けた。祖母はずっと昔にこの人と望を繋いでくれていたのだ。
以前、和己の勤める店に向かう際に落としてしまった財布、あのとき落としたままだったらこの出会いは成立しなかった。改めてあのとき拾ってくれた女性に感謝しつつ、そのエピソードを和己に話した。
「その人、もしかしたら鳥海さんかもなあ。最近たまに店に来てくれるんだよ。鳥海……鳥海幸子とか言ってたかな」
鳥海さん……財布を拾ってくれた時の彼女のまとっていた雰囲気を思い出す。店にいればまた会えるだろう、その時にお礼を言おう。
それだけ会話すると、二人は寄り添うように夕陽を眺めはじめた。
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