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 夏の間扇風機が置かれていたところの絨毯には、 うっすら跡がついていた。 そこには確かに夏があったのだという 奇妙な感覚が僕を捉えた。  そのとき、 玄関の方からりん、と音がした。  鈴。  漂う空気の中で 唯一はっきりとした輪郭を持ったその音が 僕の鼓膜を突いた。  僕の体はすでに動き出していた。 立ち上がったところで少しふらつく。  僕の腕や足は 十年前のあの夏に戻ったかの様に 前へと進んだ。    その一回の後、玄関にあるあの鈴が鳴ることはなかった。  振れど叩けど、箱から出した時と同じ鈍い音が鳴るきりであった。  けれどあの鈴の音は決して幻ではないという実感が僕にはあった。  一抹の期待をもって自分の部屋を見回すが、変化はない。  僕は思い切ってドアノブを掴み、そして回した。  アパートの少し重いドアが音も立てずに開き、光が入り込んできた。  
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