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 青野君はバックパッカーをしていた。日本でお金を貯めて、海外を旅して、お金が尽きるころまた帰ってきて働いてと、そんな生活をもう三年も続けているらしかった。どんなにか浮世離れしていることだろうと思っていたら、そんなことはまるでなかった。  物静かなのは相変わらずだけど、私がふらふらと危うい通りに足を踏み入れようとしたり、危うい人が近づこうとしているのに気づかなかったりすると、突然気配が変わり、「向こうへ行くぞ」と小声で言う。その場を抜けてから、どういうところに危険を感じたのかを説明し「防犯意識が足りない」と怒られた。 「よく今までなんの問題もなく済んでたよな。よほど運がよかったんだよ」  そう言われるたびに、(そうなの、私、たぶん運がいいんだよね)、と心の中で思った。  彼と一緒にいると、よく道を聞かれるのも印象的だった。「どう見ても、俺、外国人だよな?」そう苦笑いする姿に、昔のことを思い出した。彼は大学内でも、数少ない留学生にいつもなにかしら頼られていたし、一緒に歩いていると、やたらといろいろな人に話しかけられるのだ。こうして見知らぬ国で、使う言葉が違う人たちからも頼りにされるのを見ると、この人は常になにかそういう気配を発しているのだろうとしか思えない。  常に南米にいるわけではなくて、そろそろ今のような生活に終止符を打つために、最後に日本から一番離れたところに来たかったそうだ。日本に帰ったら、以前勤めていた会社で一緒だった人と、身を固める予定らしい。  今日は最後だから、言ってみてもいいだろうか。ここ最近、いや、おそらくは青野君と再会するとわかってから、ずっと言ってみたいと思っていたことがあった。 「ここのコーヒーって美味しかったね。ちょっと薄めだけど、好きだったな」  自然と過去形が口をついて出たことに気づき、もう気持ちの半分はここにないのかもしれないと思う。それとも、帰国してからの衝撃が薄くなるように、今から予行演習でもしようとしているのだろうか。 「まだいればいいじゃないか」 「それは、私だってまだいたいけどさ」 ボリビアに来てから、私の体調が安定しなくて心配してくれていたのか、単にひまだったのか、彼は、同じ宿に泊まって、なにかあったらすぐに駆けつけられる範囲内にずっといた。だからここに来てからは、ほぼ毎日のように顔を合わせていた。  彼は彼で、ある程度見知った人と日本語で話せる環境が貴重だったのかもしれない。私がここを去ったら、やがて彼もここを去る。私が来る少し前から来て、私が着いたころには「下見してたから」と言って、いろいろと教えてくれた。それも全部、終わったことになる。  この店は彼のお気に入りだったようで、二日に一回は来ていた。観光客向けで値段は高かったけど、通りに面した大きい窓がついていて、明るくて眺めがよかった。お店の人もすっかり顔なじみになって、入ると満面の笑みで迎えてくれた。彼は、私が帰ったら、やがて一人でウユニ塩湖へ行き、アルゼンチンに入ってアタカマ砂漠へ行き、それから先の予定は、そこでまた考えるらしい。私は、あまり興味はなかった。どこへ行こうと、そこに私がいないことは確かだった。  そう、明日になれば、もうここに私たちはいない。学生時代を過ごした町を去ったあと、数年後に訪ねたときのことを思い出す。なじんでいたはずの町は、すっかりよそよそしくなっていて、他の人たちのための街になっていた。ここも次に来たときには、きっとそうなっているのだろう。 「アルルの女って、知ってる?」 「ああ、あの、クラッシックの曲のことか?」 「そうそう。音楽もあるんだけどね、あれって、もともとは小説だったんだよ。それが戯曲になって、それで、曲がつけられたの」 「ふうん、どんな話なんだ?」  彼も特にお話に興味があるわけではないだろうけど、二人の間では、あらかたありきたりな話題は出尽くしてしまったので、こうして、相手の知らない物語の筋をじっくり説明するような時間もたっぷりある。  アルルの女の舞台は、今から二百年以上も前、フランスの農村だ。フレデリという名の青年が、アルル地方に住む美しい女性に恋をする。彼は裕福な家のお坊ちゃんで、一方女性は、身分が違うらしい。家族は二人の間柄について快く思ってはいないが、彼のあまりの熱意にしぶしぶながら結婚を認める。しかし、女の恋人だった男が現れ、「あの女は、実は自分と深い仲にあった女だから、お宅の坊ちゃんにはふさわしくない」と告げ口する。フレデリは周囲の勧めに従って女のことを諦め、自分に好意を寄せてくれる別の女性と結婚することに決めるのだが、アルルの女が恋人と駆け落ちするという話を聞いて、階段の上から飛び降りて死んでしまうのだった。 3b75e6a0-d2c0-4a87-af66-22586fa19ed3
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