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まずいことになってしまった。長椅子の隅に座った涼子は、隣を盗み見る。
反対側の隅に座った隼人は、文庫本を読んでいる。親友の好きな人と二人きり。雪歩になんて言い訳をしたらいいのだろう。
けれど、何を言い訳するのだろう。雪歩と隼人はまだ他人で、涼子に非があるとすれば、雪歩に返事をしなかったことだけだ。気まずさから距離を置いたが、明日は必ず返事をしよう。それまでは協力の話を忘れると決めて、ふと気づく。
「ここ、バス来ないよ」
涼子が口を開くと、隼人はびっくりしたようだ。切れ長の目が、涼子を捉える。
「そうなのか? じゃあ、なんで……えっと」
「一組の羽岡涼子。涼子でいいよ」
他の同級生に接する口ぶりで言ってから、はっとした。雪歩の顔が、頭にちらつく。隼人も、居心地悪そうな顔をした。
「ここの人は、皆そう言ってくれるよな。こっちは慣れてないのに」
「じゃあ、名字で。呼びやすい方でいいよ」
「涼子は、どうしてここにいるんだ? バスは来ないのに」
何かと張り合うように、隼人は涼子と呼んだ。見えざる敵と相対している鋭利さを、再び感じた。
「雨宿り」
「学校ですればいいじゃん」
「そうだけど……」
学校は、どこもかしこも恋の気配で浮き立っていて、気が進まない。そう正直には言えないので、逆に質問した。
「急いでるの?」
「別に」
今度は、隼人が歯切れ悪く答えた。嘆息した涼子は、豪雨でけぶる遠方を指さした。
「このバス停、今は使われてないの。あっちが現役のバス停で、次のバスは四十分後」
「四十分後?」
隼人は目を瞠り、腰を浮かしかけた。むっとした涼子は、隼人の隣に移動する。
「やっぱり急いでるんだ。誰かと待ち合わせ?」
「なんで分かるんだ」
「誰かの顔色を窺うことに、実は慣れちゃってるからかな」
隼人は、不意を打たれた顔をした。空席を詰めたことで、文庫本に綴られた言葉の一つが、涼子の目に留まる。
「この言葉、どういう意味?」
「銀箭か。強い雨脚を、銀色の矢に例えた言葉だ。今みたいな雨が、銀箭」
隼人が、目線で示す。細い雨が、閑散とした車道を叩いていく。涼子は感心した。
「雨って言葉を使わなくても、雨を表現できるんだ」
「雨を竹に例えた銀竹って言葉もある。この二つの言葉の類語が、夕立」
「夕立」
落ち着いた声で紡がれた雨の言葉を、涼子も唱えて声でなぞる。聡明な転校生が告げるだけで、以前から知っていた言葉に、凛とした気品が宿った気がした。
「どうして、俺にそんな話をした?」
「さっきの話のこと? 友達よりも他人のほうが、話しやすい時ってない? 何となく、そんな気分だっただけ」
畳んだ傘から雨水が伝い、地面に水溜まりを作る。庇を打つ雨音に紛れて「意外だな」と声が聞こえた。
「俺が初めて学校に来た日、校庭を走ってただろ」
涼子は、驚く。先週の快晴の日に、隼人も涼子を見ていたのだ。
「一人だけ飛び抜けて足が速かったから、学校ですれ違った時に、あの時のあいつだってすぐに判った。悩みなんて無縁そうに真っ直ぐ走ってたから、羨ましかった」
「走るのは好きなの。頭の中を空っぽにして、一秒でもタイムが縮まると嬉しいし、縮まらなくても、気分が良いから」
「俺は、ここに来てから良いことなんてなかった」
雨音の調べが、沈黙を埋めていく。小降りになった夕立が、少しだけ心を開いてくれた転校生の独白を際立たせた。
「俺の母親、噂で知ってるんだろ。家から出ないシングルマザーで、協調性がない変人。確かに母さんは、情熱を在宅の仕事に取られてるけど、今の生活を選ばせたのは父さんだ」
「もしかして、待ち合わせ相手は、お父さん?」
雨脚が、また強くなる。涼子は、問い詰めた。
「待ち合わせ場所、どこ? 何時?」
「駅に、四時半」
「四時半って、もう四時だよ!」
「別にいいよ。っていうか、ほっとしたんだ。ああ、これなら行けないよな、って」
隼人は、口の端を持ち上げた。自嘲と諦観の声が、雨音と混じり合う。
「でも、本当は分かってるんだ。俺は、今の生活が嫌いじゃない。毎日が賑やかで、卑屈になる暇もなくなった。俺だって母さんと大差なくて、クラスの奴らが優しいから、話し相手がいるだけだ。父さんのことだって、怨んでなんか……」
苦笑した隼人は、涼子を振り返り、息を呑んだ。
涼子が、立ち上がっていたからだ。
「行こう、立って」
「……バスは来ないし、この雨じゃどうせ走ったって」
「夕立に遭ったから、バス停を間違えたから、もう間に合わないから? 関係ないよ。会いたいくせに、会わない理由を作ってる」
隼人は鼻白んでいたが、苦しそうに涼子を睨んだ。
「でも、間に合わない」
「間に合う」
断言した涼子は、傘を開いた。雨粒が弾けて、曇天に黄色の花が咲く。
「私が、間に合わせる」
ぱしっと乾いた音がした。涼子はこの町に馴染もうと努力している男の子の腕を掴み、バス停跡地を飛び出した。校庭の駐輪場まで駆け戻り、銀色の自転車に鍵を挿す。
「山科くん、うちもお父さんはいないよ」
隼人は、驚かなかった。それでも聞こえた息遣いが、まだ動揺が醒めていないことを教えてくれた。
「お母さんいわく、元旦那は顔も見たくない。今後の冠婚葬祭にも、父親は関わらないって受け入れてる。寂しくないよ。私はお母さんが大好きだし、お父さんの空席には、おじいちゃんとおばあちゃんが座ってくれたから。ねえ、別に、だからってわけじゃないけどさ」
隼人の通学鞄を自転車の前かごへ押し込み、涼子はサドルに跨った。
「会いたくないならともかく、会いたいなら、会いに行かなきゃ」
青にもピンクにも見える不安は、きっと隼人にも見えている。一人なら怖くても、二人なら怖くない。
「後ろに乗って、掴まって!」
隼人は金縛りが解けた顔で荷台に乗り、涼子は力強く地面を蹴った。夕立が柔らかく降り注ぎ、「俺が走る!」と叫ぶ隼人へ「私に任せて!」と叫び返す。
「山科くんは、途中から走って! 全力で!」
土草が香る畦道を駆け抜けて、近道の小山に入る。坂道へ怯まず挑むうちに、不安も、迷いも、身体から剥落していった。この感覚を、涼子はとうに知っていた。
頂上に着くと、霧雨を運ぶ風が頬を撫でた。涼子は、ふらつく足を地面につける。
「下り坂からは、山科くんの番。ほら、駅が見えてる。真っ直ぐ進めば、大丈夫」
「ああ、交替だ。涼子は後ろに……」
「ううん、私は歩いて帰る」
自転車を降りた涼子は、息切れしたまま、にっと笑った。
「絶対、間に合ってよね」
隼人は、やがて毅然と頷いた。さっきよりも、すっきりとした良い顔をしている。
すぐに出発するかと思いきや、隼人は前かごの通学鞄から黒いパーカーを取り出した。それを涼子に投げつけてから、自転車で麓の街へ走っていく。
呆けた涼子は、パーカーを握る胸元を見下ろして、息を止めた。雨で透けかけたセーラー服を上着で隠し、頬の火照りを雨で冷ます。
隼人の服からは、畳の藺草に似た、よその家の匂いがした。
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