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家に着く頃には、雨は止んでいた。洗い髪にタオルを当てて、赤く色づいた居間に入る。着替えを済ませた涼子は、夕日を窓越しに眺めた。
家族の帰宅まで、まだ時間がある。石鹸の匂いの幸福感に包まれながら、今日の椿事を回想すると、窓の外に現れた人影が、涼子の心臓を高鳴らせた。急いで玄関扉を開き、自転車を門の前に止めた人物に駆け寄る。
「山科くん、どうして? お父さんは?」
勢い込んで訊く涼子へ、隼人は「落ち着けよ」と素気無く言った。ズボンの裾は泥だらけで、この田舎で生まれ育ったような出で立ちからは、以前の鋭さが薄れていた。
「父さんに仕事の電話が入ったから帰ってきた。ちゃんと会えたから」
それを聞けて、ほっとした。涼子は、悪戯っぽく笑って見せる。
「自転車を返しに来てくれたの? よく私の家が分かったね」
「近所のクラスメイトと、この辺の人達に訊いた。疲れたし、心臓に悪かった」
「大げさだよ。皆いい人でしょ?」
「まあな」
「上着は、洗濯して返すから」
涼子は、平静を装って言った。いつもの羽岡涼子の顔を作れたか、無性に気になって仕方なかった。
対する隼人は、無神経なほど平然と「別にいいのに、洗濯なんか」と返してくる。意識されないのも癪だという慣れない感情を抱えていると、自転車の前かごに紙袋を見つけた。視線に気づいた隼人が、紙袋を開けた。
「これ、母親から。自転車のお礼に持っていけって」
「わ、きれい」
紙袋には、夏野菜のキッシュが入っていた。ケーキのように切り分けられた断面で、ズッキーニの緑とトマトの赤が鮮やかだ。雨粒みたいな粗塩は雨上がりの空にぴったりで、チーズと胡椒のいい匂いがした。
「山科くんのお母さん、料理が上手なんだね」
「隼人」
「え?」
「こっちだけ名前で呼ぶのは、フェアじゃないっていうか……呼びやすい方で呼べばいいから」
隼人は、よそ見をした。夕日に照らされた横顔は、耳まで赤い。
「母さんのこと、そんなふうに言われたのは初めてだ」
なんだ、そちらで赤面したのか、と涼子は拍子抜けする。けれど、少し嬉しくなった。隼人は、田舎に馴染めなかった母親が、誰かに認められると嬉しいのだ。出会いの直感は正しかった。隼人とは仲良くなれそうだ。
「あ、虹」
隼人が、田園風景の彼方を指さした。澄んだ夕映えの空に、七色の橋が架かっている。
「ほんとだ。今日は良い日だったなぁ」
「ここに来てから良いことがないって言ったけど、撤回する」
隼人が、涼子を見た。前髪が風に靡き、双眸を穏やかに細めて、微笑む。
「良いことなら、ちゃんと前からあったんだ」
とくんと、胸が弾んだ。雪歩から協力をお願いされた時と、苦しさが似ているのに少し違う。隼人が虹の方角へ帰ると、涼子はじんわりと温かい紙袋を抱えて家に入り、玄関の上がり框に座り込む。
キッシュを一口食べると、洒落た見た目に反して味は素朴で、シンプルな塩気が野菜の旨味を引き出していた。田舎でも、都会でも、違いなんて一つもない。隼人の母親は、きっと大丈夫だ。涼子は、紙袋を抱いて俯いた。
霧のような夕闇から、学校に満ち溢れた青とピンクが染み出してくるのを感じた。今の涼子は、雪歩を始めとした少女達と同じ顔だ。そんな己に、嫌悪感は湧かなかった。
顔を上げた時、涼子の心は決まっていた。
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