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「うわ……うわぁ……」
百目木舟人は思わず漏れ出た声をなかったことにするかのように慌てて口元に手をやった。
黒雲白雨。
サッと視力が急激に落ちたようにあたりの景色が暗くなったかと思うと、途端に先程まで晴れ渡っていた空から盆をひっくり返したような激しい勢いで雨粒が次々と落ちてきた。
ちょうど、というよりたった今。由良が目の前でカラリと乾いた、否、乾いていたというのが正しいだろう、洗濯物を取り込もうとしていたその時に、無慈悲な程の大量の雨が庇の下に駆け戻る時間も与えずに由良の脳天に降り注いだ。
「……」
屋根や地面、周囲の木々を激しく叩く雨音はバタバタという音を通り越して轟々と鳴り響いている。戦闘機のエンジン音と良い勝負な程の騒々しさの中、少し離れた庇の下にいる舟人には聞こえるはずのない由良の舌打ちが聞こえたような気がした。
由良、花登由良は舟人のペアで共に瑞雲に乗る操縦員だ。元々は単座機である零戦乗りだった由良は、ここラバウル航空隊でも指折りの「二つ名持ち」の操縦員だ。ペアに任命された当初はその苛烈すぎる性格から舟人と一切口を聞いてくれなかった由良だが、瑞雲に搭乗するようになり早半年。ようやく基地内の他の誰よりも心を許してくれるようになった。……と舟人は思っている。
そんな由良は視界が烟る程の大雨の中で立ち尽くし、一人難を逃れている舟人へ恨みがましい視線を送っていた。
舟人以外の人物であったら、その視線で射抜かれただけで腰を抜かしたり悲鳴を上げて逃げるのだろうが、瑞雲に乗るまでに一悶着も二悶着もあった舟人からすればとうに慣れたただの涼やかな目線だ。
なぜ由良が恨みがましい目で舟人を睨んでいるかというと、舟人のせいで洗濯物をしまうのが遅くなったからだった。
ラバウルを始め、南洋諸島の天気は山と同じくらい変わりやすい。熱帯性の気候のため、雨季ともなるとスコールと呼ばれる夕立のような激しいにわか雨は日常茶飯事だ。突然降るとはいえ、黒い雲がぐんぐんと湧き上がりどこからか涼風が吹いたりするので、比較的見当はつけやすい。
だから南洋諸島の最前線基地で日々過ごしている舟人たちにとって、スコールを予見するのは朝飯前のことだ。当然いつもの由良ならこんなヘマなどしないのだが、今日は少し事情が違った。
それはちょうど三十分程前に遡る。
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「なんだとてめえ!もういっぺん言ってみろ!」
上官に事務作業の手伝いを命じられ、昼飯を食べ損ねた舟人は空腹を訴える腹をさすりながら何か余ってはいないかと食堂にやってきた。配膳の当番だろうか割烹着を着た地上要員に話しかけようとした瞬間、食堂内に響き渡るような怒声で舟人を始め辺りにいた者が声のした方へと視線を向けた。少し離れた長机の真ん中で見たことのない搭乗員が顔を真っ赤にして怒鳴っている。搭乗から戻ってきたばかりなのか、飛行服に身を包んだ彼と同じような格好をした仲間と思わしき数人の搭乗員が焚き付けるように「そうだそうだ!」と叫んでいる。
なんだ、喧嘩か。同じ基地、いや同じ軍の仲間同士で争い合うことに興味のない舟人はすっと視線を外そうとした。が、視界の端によく見知った顔が飛び込んできてピタリと顔が止まる。
火中にいる喧嘩の相手は、由良だ。
「はー……あいつ、本当に……」
ぎゅるぎゅると鳴る腹を片手でさすりながら、にわかに痛み出したこめかみをもう一方の手でぐりぐりと揉んだ。
「ああ、言ってやるよ。雑魚が何人群がったって、グラマンはおろか赤トンボすら墜とせねえって言ったんだよ」
ひやりと温度のない声音で挑発する由良の口元は嘲るように歪んでいる。
「このッ、てめえッ!!」
由良の挑発に乗ってしまった喧嘩相手の搭乗員が激昂し、由良の胸ぐらを掴もうとした間一髪のところへ舟人は自らの身体を滑り込ませた。
「……っと、すまん。うちのペアが悪かったな」
「……おい」
温度のないまま、いや先程よりも冷たく重くなった由良の声を遮るように舟人は続ける。
「お前見たとこ搭乗終えたばっかだろ。腹減ってるよな?おーい、こいつに昼飯の残り持ってきてやってくれよ!」
背後の由良をじりじりと背で押し、相手から遠ざけつつ舟人は少し離れたところで固唾を飲んでいた取り巻きたちに声をかけた。
不意を突かれた眼前の相手は怒りの矛先を失ったようにパクパクと口を開けたり閉じたりしている。
「腹減ってるとさ、いつもよりうんと短気になるよな。俺も今腹減ってるから分かるんだけど、ここはさ、俺の空腹に免じて見逃してくれないか」
「なんだそれ!そんな無茶苦茶な……」
舟人の脈絡を得ない言い分に取り巻きの一人が反論するように声を上げた瞬間、慌てたように配膳盆を持った地上要員が駆けて来た。
「ほ、ほらこれ!昼の残りの握り飯だ!」
あまり騒ぎが大きくなると上官がやってくる。そうすると喧嘩をしていた当人たちはもちろん、周りで止めずに傍観していたと周囲の者も合わせて処罰の対象となるのだ。
喧嘩の処罰は大概が急降下爆撃だ。
ここで言う急降下爆撃とは海軍独特の腕立て伏せのことだ。元来は艦船の手摺の上段に両足を掛けた姿勢で、ゆっくりと上体を下げ、再びゆっくりと腕を張り元の姿勢に戻るという大層負荷の高い腕立て伏せで、精神注入棒で尻を叩かれるのと同じくらいに恐れられている。不幸なことに食堂には足を掛ける手頃な高さの椅子が沢山ある。周りの連中も食後にあんなキツい腕立て伏せなどやりたいはずもなく次々に「おお、食え!食え!」と声を上げた。
完全に興が削がれた様子の搭乗員たちと舟人の間に何人かの地上要員が割り込んだ。そのうちの一人が小声で舟人に「さっさと行け」と言い、出口の方へ顎を向ける。
「すまん、恩に着る」
だがその握り飯は俺も欲しかった……。舟人は半ば後ろ髪を引かれつつ、「触るな!」ともがく由良の上体に腕を回して引きずるように食堂を後にしたのだった。
食堂のある建屋を後にしたところで「離せッ!」と由良が舟人の腕を振り払った。
「邪魔すんじゃねえよ」
ギン、と音が聞こえてきそうなぐらいの鋭い視線で由良が舟人を睨み上げた。凄んではいるが、舟人の方が上背があるためどうしても由良は見上げる形となる。
もう少しその視線が柔らかければ、女子学生が上目で見遣るようで可愛らしいのに……。と舟人の思考は逃避するかのように明後日の方向へ進もうとした。舟人は一つため息を吐いて意識を無理矢理元に戻し、腰に手を当て由良に言った。
「なーにをあんなところで油売ってんだ!」
「俺は売ってねえよ。向こうが勝手に突っかかってきたんだ」
そんなわけあるか。
と舟人は胸中で一蹴する。基地内ではもはや耳慣れる程「修羅」と呼ばれ、敵国の兵士にすら「デビル」だの不名誉な渾名を付けられている由良だ。渾名が物語るように関わって泣きを見ることはラバウルにいる大半の連中の知り及ぶところである。
そんなわけで大抵の場合、由良の近くには彼自身がそうなるように仕向けた通りに人が寄り付かないが、交戦的な性格はそのままなので些細なことで他者との間に火がついてしまう。
由良のペアとなってから度々起こるそれを小火で済むように火消しして回るのも、舟人の任務のうちの一つとなりつつあった。
「あーもー、お前のせいで本格的に昼飯食いっぱぐれたじゃないか」
「知るかよ。時間通りに食いに来ない貴様が悪いんだろ」
フン、と鼻を鳴らしながら言った由良は更に舟人から距離を取るように後ろへ身を引き、その場から去ろうとした。
「ちょっと待てよ」
さすがにムッとなり舟人は咄嗟に由良の腕を掴んだ。
「離せよ」
途端、由良から放たれたピリピリと肌に刺さるような不機嫌な気配が舟人を襲うが、舟人はそれを何事もないかのようにやり過ごす。
「由良のせいで昼飯食い損ねたっつってんの」
腕を掴んだままぐいと顔を突きつけて再度言う。
「知らねえっつってんだろ」
「お前があそこで喧嘩売ってなければ俺は今頃握り飯にありつけてた」
「うるせえな」
埒が開かんといった体で由良が面倒臭そうに表情を歪める。
「うるさくしてないだろ。とにかく!お前のせいで俺は空腹なの!だからさ……」
秘密の話をするように声をひそめて真面目な表情となった舟人が、由良の顔を覗き込みながら言った。
「お前が隠し持ってる桃缶、俺に分けてくれ」
「……は?」
神妙な面持ちで顔を覗き込まれ、何を言われるのかと僅かに身構えていた由良は出鼻を挫かれて目を瞬かせた。
「もーもーかーん!持ってんだろ由良」
「も、持ってない……」
「嘘だ、寝台の下に入れてたじゃねえか。ていうか今目逸らしただろ」
お前が目逸らす時は嘘付いてる時だろ。
と知った顔で言う舟人に由良の眉根には深い皺が刻まれる。
しょうがないから分けてやろうと一瞬思ったが、知ったように得意げな顔をされるのは癪に障る。絶対に分けてやるもんか。
そう由良が決意を結んだ瞬間、夕立を知らせるかのような遠雷の音が微かに響いた。
「……雨降るぞ」
「知ってるよ。音聞こえたし。というか桃缶」
「しつけえな!」
由良も由良だが舟人も妙なところで頑固さを発揮する。それは瑞雲のペアに任命されてから、瑞雲に搭乗するまでのひと月半の間に基地中の皆が知ることとなった。
「いい加減にしろよ、雨降りそうだし俺は洗濯物をしまいに行くんだ」
邪魔すんじゃねえ。と威嚇するように由良が睨みを効かせるが舟人も譲らない。
「いーや、まだ降らないね。お前だって別に甘いもんそんなに好きじゃないだろ、俺が貰ってやるよ」
「なんでそうなる!いいから手離せよ!クソッ、この馬鹿力が……!」
「由良が桃缶くれるまで絶対に俺はお前を離さないからな」
「ふっざけんな!」
そんなやり取りをしているうちに二人の頬に冷たい雫が触れた。
「あっ」
由良は小さく叫び目を見開いたかと思うと同時に、するりと猫のように身を捩り舟人の腕から逃れるとそのまま宿舎の方に向かい走って行った。
「由良!」
舟人も慌てて由良の後を追いかけて行くが、数分後にたどり着いた先で見たのはずぶ濡れの洗濯物を抱えたずぶ濡れの由良の姿だった。
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そんなわけで由良の洗濯物は犠牲になったのだった。
「ゆ、由良さーん……?」
全身くまなく濡れそぼりながら幽鬼の如くじわりじわりとこちらへ歩み寄ってくる由良へ、舟人は機嫌を伺うようにぎくしゃくとした笑顔を浮かべながら名を呼んだ。
「……」
その呼びかけを完全に無視して、庇の下へ辿り着いた由良が細い目を更に不機嫌そうに細めた。
そして小ぶりの唇が開いたと思った次の瞬間、
「貴様のせいだぞ。干し直せ」
と由良はびちょびちょになった洗濯物の塊を乱暴に舟人へと投げつけた。
咄嗟に洗濯物を受け取ってしまった舟人の顔面にビチャッと布切れが張りつき、塞がった両手の代わりに舟人は首を振ってそれを顔から剥がした。
「……」
褌だった。
洗ってあるとはいえ、他人の褌が顔に張り付くのは通常心地の良いものではない。心地の良いものではないはずなのに、何故か由良の物だと思うと不思議と全く嫌な気持ちにならなくて、舟人は僅かに狼狽した。
そんな舟人の胸中を読んだのか通り過ぎ様、由良は舟人にしか見せないどことなく悪戯気で挑発するような表情を浮かべ、口の端を僅かに吊り上げ「変態」と呟いた。
「っ!」
瞬間顔に熱が集まったのを舟人は感じた。
慌てながら「おいっ!」と振り向き声をかけるも、由良はどこ吹く風と知らん顔でスタスタと宿舎の方へ歩き去って行く。
「っ、クソぉ……」
一本取られた。
頬を染めながら舟人は胸中で白旗を揚げた。
気がつけば雨は止んでいて、灰色の雲が次々と切れていき合間から真っ青な空が顔を覗かせている。庇の端からは舟人の腕に抱えられた洗濯物と同じように、透明な雫がポタポタと音を立てて落ちていき、水溜りを弾きながら細やかな飛沫を上げている。
一際大きな飛沫を上げて舟人は水溜りを踏みながら陽光の元へと出て行った。
腕に抱えた洗濯物を再び干していく舟人の濡れた頬は、雲の切れ間から差し込んだ光に照らされてキラリと瞬いた。
夕立と呼ぶには些か早い雨の名残たちは、再び燦然と蒼空に浮かんだ太陽の光に照らされてキラキラと宝石のように虹色に輝いた。
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