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ドーピングマン
十本のピンを三角形に並べればいいだけのはずが、ここはまるで空間全てをピンで埋め尽くした地獄のボーリング場だ。
翔太郎は溜息をつきつつ、誠の背中を追った。
金曜の晩という事もあってか、クラブ『メリオスボール』の店内は、人とすれ違うのが困難な程の賑いを見せていた。乱反射する巨大ミラーボールが放つ強烈な光線が、過密な空間で膨れ上がる人いきれと暗闇を交互に浮かび上がらせ、現実逃避に我を忘れた若者たちの無軌道さに拍車をかけていた。忘我の境地で体を揺さぶる人間ピンの隙間を、誠は縫うような動きで器用に歩いて行く。そんな誠の背中を見失わぬよう、翔太郎が後を追う。その顔にははっきりと「もう二度と来ない」と書かれていた。
前回この店で美央を見つけたのは、バーカウンターだった。しかし今晩そこに美央の姿はなく、誠は追い付いて来た翔太郎を振り返り、何事か声を掛けた。翔太郎が身体を倒して耳を近づけると、誠は照れて周囲を見渡し、ゆっくりと彼の頬に唇を寄せた。
「VIPルームには、入れますか?」
翔太郎は体を起こすと、苦笑して首を横に振った。誠は意外そうな顔で首を傾げたが、周囲の音がうるさすぎて、翔太郎は言葉で説明する事を諦めざるをえなかった。
この街で、元『EYE』のカオリは知られた名前である。そのカオリが経営に携わっている『合図』という店をたまり場として使う翔太郎達も、それなりに知られた存在ではあった。それはカオリがかつて芸能界で活躍していた経歴からくる羨望とは別の意味なのだが、翔太郎はその違いを誠に理解させる気にはならなかった。
そもそもメリオスにカオリの口利きで入った誠は特別待遇であり、本来必要な入場料を払っていない事に疑問すら抱けていない。女性に対しては入場料を取らないという店も多いが、メリオスに関しては女性客からも通常料金と同じ五千円という額を取っている。ましてやVIP席、あるいはVIPルームと呼ばれる個室を抑えるとなれば、通常料金の十倍程度の金額を支払い優良顧客とならねばならない。残念ながら翔太郎は、そんな優良な太客ではない。
翔太郎は今日何度目かの溜息を付くと、誠の手を引いてカウンターに座らせた。するとすぐに、誰もが目を見張る誠の顔に吸い寄せられるように、バーテンダーが飛んで来た。
翔太郎が身を乗り出して顔を近づけると、若いバーテンダーは露骨に嫌そうな顔を浮かべて後ずさった。翔太郎は眉間に皺を寄せてバーテンを手招きし、
「人を探してる。ちょっとだけ中確認させてくれよ。遊びやしないから」
と叫んだ。中というのがVIPルームなのだろう。バーテンは翔太郎と誠を交互に見て、何も言わずに頷いた。バーテンの顔には「関わりたくない」という表情がはっきりと浮かんでいた。
誠の予想通り、押鐘美央はVIPルームにいた。しかも、一人でだ。料金システムを理解している翔太郎は一人で部屋を押さえている美央に違和感を抱いたが、駆け寄るように美央へ近づいた誠に気が行って、深く考えるのをやめた。誠が美央の顔を見るのは、初めてこのメリオスを訪れた日であり、翔太郎と再会した日であり、そしてキョーちゃんが死んだその日以来であった。美央の顔を見て辛い記憶を呼び覚まされ、誠がまた吐いてぶっ倒れやしないかと、翔太郎はそのことを心配していたのだ。
美央は顔を上げるとソファーから立ち上がって両手を広げ、飛び込んできた誠と無言のまま抱き合った。しかしその向こうに翔太郎の顔を見つけた途端、鋭い目で睨みつけた。キョーちゃんの訃報を聞く直前、このVIPルームにて美央は翔太郎に頭からバーボンをかけられている。もちろんその後、謝罪などあるはずもなかった。
「ずっと心配だった」
体を離すと、すぐに誠がそう言った。
美央は力なく微笑むと、
「私もだよ。だけど回復したみたいじゃん。良かった」
と言って涙を流す誠の顔を下から覗き込んだ。
「ずっとひどい顔してたもんね。うん、ちょっとは元気そうだ」
「ありがとう。ごめんね、心配かけて。だけど美央もどうなの。何があったの?」
メールの文面だけでは、ただでさえ掴み所のない美央の心境を理解する事は出来なかった。キョーちゃんの死に心を傷めていたのは、美央も同じの筈である。しかしその事で彼女が自分を呼び出したとも思えず、誠は不安だけを抱いていた。おそらくはエンジンか、山規組に関連して何か問題が起きているのだろうという事だけは想像がついた。
「なんで、その人と一緒なの?」
美央と誠の間には、今、人間一人が立てるほどの隙間すらない。小声で話せば誠にだけ伝える事も出来た。しかし美央は敢えて、離れて立つ翔太郎に聞こえるような声でそう言った。
翔太郎はなるべく美央を見ないようにした。見れば腹が立つからだ。誠は二人の剣呑な空気が嫌で、取り繕うように明るい表情を作った。だが振り返ったそんな誠の顔も、翔太郎にはたまらなく嫌だった。
「お世話になってる。あれからずっと」
誠は正直に答え、美央から一歩遠のいた。それはつまり、翔太郎へと歩み寄った事を意味していた。
「はあ?」
顔を歪めて美央は言い、「どういう意味よ。どういうつもり。その男が私に何したか、セキタン見てたよね」
と敵意を剥き出しにした目で翔太郎を睨み付けた。
「見てたよ。だけど、それとこれとは……」
そこへ音もなくVIPルームの扉が開き、突然フロアの騒音が飛び込んで来た。翔太郎と誠を追って、『合図』から池脇竜二が移動して来たのだ。竜二は一斉に三人の視線を受けるも黙して何も言わず、成り行きを見守るように鏡張りの壁に背を預けて立った。
「うーわ」
と美央が言った。
「何?」
尋ねる誠の顔を睨むように見ながら、美央は竜二に向かって指を差した。
「『いいかぜ』の、い。でもってもう一人の、い!」
「……ああ」
そう言えばそんな話をしていたな。
最早誠にとってはその程度の記憶でしかなく、美央が翔太郎以外の存在に腹を立てる理由も理解出来なかった。
「私が色々苦労して駆けずり回ってる間、あんたはいとも簡単に彼らの懐に潜り込んでたってわけだ?」
「え、嫉妬? 何が言いたいの?」
言いがかりにしか聞こえない美央の言葉にさすがの誠も腹を立て、小声ながら美央に近づき抗戦の構えを見せた。その瞬間、サッと、美央が両手を肩の高さまで持ち上げた。それは一見、白旗をあげるポーズに思えた。
「いい。もういい、分かった。私は私で好きにするわ」
美央はそう言い、ある意味すっきりしたとでも言わんばかりの笑顔を浮かべて、手を挙げたまま誠から離れた。
「何が? さっきから何の話をしてるの、ねえ、美央。何かあったんじゃないの? どうしてここに呼び出したの?」
なおも話の先を聞き出そうとする誠に愛想をつかしたように、美央はルーム内にあるミニバーへと近付いた。
「伊澄さん。最後にひとつだけ、お願い聞いてもらっていいですか」
自分の質問には答えず矛先を変えた美央の言葉に、誠は不安を感じて翔太郎を振り返った。
「なんだよ」
答える翔太郎は、なんの気負いもない顔で煙草に火を点けている。
「私色々、情報を集めてきたんですよ。色々な人から聞けるだけ話を聞きましたけど、いつだって最後にはあなた達の名前が出て来るんですね。中でも伊澄さんの、怖いぐらいの武勇伝を、いくつも耳にしましたよ?」
美央はそう言いながらカウンターの向こう側へと回り、翔太郎をじっと見つめた。翔太郎は何も答えず、ただ頬をへこませて煙草の煙を吸い込んだだけである。
「今でも、相当、腕っ節には自信がおありなんじゃないですか?」
すると翔太郎は振り返って、壁際に立っている竜二を見やった。竜二は思わず吹き出すように笑い、その顔を伏せた。
「ガキの戯言だと、そう思っていらっしゃるんでしょうね」
美央は言う。
「実際そうじゃねえか」
と翔太郎が返す。「俺もう良い年なんだからやめてくれよ。喧嘩強いとか言われて鼻の穴膨らんだりしないって」
「そうですか。……じゃあ、まあ、そうですね、私とこっちで勝負しませんか?」
「こっち?」
片眉を下げる翔太郎を見据えたまま、美央はバーカウンターの下からウィスキーグラスを二つ取り出して並べた。
「私、こっちには自信あるんですよ」
……酒?酒豪自慢してんのか?俺相手にか?
思わず翔太郎の鼻が膨らみ、壁際で竜二が手を叩いて笑った。この時点では翔太郎と竜二以外知る由もないことだが、偶然居合わせたこの二人は自他ともに認める飲ん兵衛であり、その底なしの強さでは誰にも引けを取った事がない程のウワバミなのだ。
翔太郎が誠を見やる。誠は首を傾げて頭を振った。美央が酒好きだなんて話は、見た事も聞いたこともなかった。相手がどの程度であれ、酒の強さで喧嘩を売られた経験のない翔太郎たちは、もはや呆れて笑うしかなかった。ましてや相手は、十五歳の少女である。
「とりあえずは一杯飲んで、私のレベルってものを推し量ってみてはいかがでしょう? ひょっとすると全米が大興奮、なんてことになっちゃうかもしれませんよ?」
美央は大きな目を潤ませ、お得意の顔の角度で小刻みに何度も頷きかける。そしてカウンターの下から高級そうなラベルが貼られたダークブラウンのボトルを取り出すと、グラスに並々と琥珀色の液体を注いだ。翔太郎は無言で歩み寄り、美央が自分と翔太郎に向けて縦に並べかえたグラスを見下ろした。舌なめずりする翔太郎を見上げ、美央が微笑む。
「やっぱり、私の勝ちだった」
「……何が」
美央は一歩退くと、つややかな唇に左手を添えた。
「おーい。メバルー!」
めば……ッ!?
翔太郎の目が見開き、竜二が壁から身体を起こした。
バーカウンターの中からあり得ない程太い人間の腕が飛び出してきた。翔太郎は眼前で手をクロスさせて顔面への直撃を免れたものの、右の手首が折れる程の衝撃を受けて後方へ吹き飛んだ。
ずっとそこに隠れていたのだろう。カウンターの中から一人の男が立ち上がり、その姿を現した。
「ドーピングマンかよ」
竜二がそう低く呟いた。
立ち上がった男の体つきを見て、誠は足がもつれたように後ろへ下がった。
異様と言えば異様だった。スキンヘッドで眉毛がなく、小さく鋭い目が黄色く濁っている。巨躯と呼べる程の身の丈ではないものの、問題は背の高さよりも、その男が鎧のようにまとう筋肉の量だった。誠の頭に浮かんだ言葉は『肉塊』、筋肉のかたまり、もしくは『肉山』であった。
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