容赦なし

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容赦なし

「あああ、痛ってー……」  翔太郎は殴られた衝撃になんとか耐え、前屈みになった体を起こして両手をブラブラと振った。 「むかつくなぁ、メバルかよ」  苦虫を噛み潰したように顔を歪めてそう吐き捨てた翔太郎の言葉に、美央の表情が僅かに曇った。二人が知り合いなのかと疑ったのだ。  翔太郎はそのまま前に歩み出ると、目にも止まらぬ速さでカウンターの上からウィスキーのボトルを奪いさり、そのまま勢いを乗せた左足でカウンターを蹴り飛ばした。カウンターの上に並べられたグラスや果物カゴが音を立てて落下し、悲鳴を上げる美央の前で、スキンヘッドの肉塊が両手を突き出した。カウンターはその場から動きこそしなかったものの、ぐらりと傾き、スキンヘッドが受け止めねば倒れていたかもしれない。  両足を開いて腰を落とし、もろ手を突き出すその姿は小柄な関取のようでもある。だが脂肪ではなく大量の筋肉をまとった相撲取りがクラブのVIPルームにいると思えば、やはり異様な状況と言えた。  翔太郎は水でも飲むようにウィスキーボトルをラッパ飲みで煽ると、 「あああ、腹立つなァー!」  と声を荒げた。  そして何より異様に見せていたのは、そのスキンヘッドの男が太っていることだった。男が鍛え上げたボディビルダーのような体系であるならば、誠が違和感に似た気持ちの悪さを感じることはなかっただろう。しかし胴回りは明らかに極度の肥満体系なのに対し、胸や両腕、両肩あたりの筋肉がボコボコと、薄いTシャツの下で盛り上がっているのが見て取れるのだ。その姿はまるで、 「ドラえもんみたいな体してるくせに」  と翔太郎がそう吐き捨てる程だった。筋肉まみれの、ドラえもんである。  ……おい。おい、誠。  茫然と立ち尽くす中、自分を呼ぶ声が聞こえて誠は振り返った。壁際に立つ竜二が手招きしていた。 「こっち来い、とばっちり喰らうぞ」 「いや、え、でも」  何度も翔太郎を振り返りながら、誠は竜二の側へ避難した。 「止めないんですか」  と誠が言うと、 「なんで。面白いもん見れるぞー」  と竜二は全く危機感のない笑顔で手を揉みしだいた。その顔は楽しそうですらあった。 「あいつはメバルっつってよ。まあ、なんだ、俺らが高校に通ってた頃に知り合った、腐れ縁って言っていいのかな。まあ、実際はツレでもなんでもねえけど」 「なんで美央が、そんな人と」 「詳しい事は分かんねえけど、メバルは今堅気じゃねえからな。聞いた話じゃあの子、美央っつったか、関西まで逃げた山規組を追いかけたそうじゃねえか。何を考えてんのか知らんが、そこらへんの繋がりだろうな」 「ヤクザなんですか?」 「メバルか? ああ、ゴリっゴリのな」 「や、やっぱり止めた方が!」  誠が翔太郎の側へ戻ろうと踵を返す。しかし竜二が彼女の手を取り、 「危ねえことすんなって」  と引き留めた。「まだ翔太郎と出会って間もないんじゃ知らねえだろうけどよ。まあ、あいつがやられるなんてことは万に一つもねえよ。黙って見てな」 「いや、だって!」  太っているとは言え、徹底的に上半身を鍛え上げたヤクザが相手である。片や翔太郎は……普通の人間である。誠にとっては見つめるだけで頬が赤らむ素敵な王子様だ。しかし体つきはいたって普通なのだ。どう考えたって喧嘩にならない。勝負ならない。いや、違う、そんな事よりも。  対峙するスキンヘッドモンスターと翔太郎の向こうで美央が笑っているのが見えた。圧倒的な二人の体格差に、勝負の勝ちを確信しているようだった。美央に会いたいという理由だけでこの場所へ来て、何故世話になっている翔太郎がヤクザと対峙しているのか。誠は理解しがたい状況に奥歯を噛み、美央を睨み付けた。美央はそんな誠に気が付いて、悲し気に苦笑した。  その男は名を、名張(なばり)と言った。  名張に『メバル』というあだ名を与えたのは何を隠そう、伊澄翔太郎である。漢字に疎かったその昔、彼らが高校生時代の話だ。クラス名簿にあった名張という苗字が読めず、「あー、メバル? 魚の?」と言い放った翔太郎の一言が由来だという。  当時はまだ線が細く、色白で目立たぬ存在だった名張だが、もとより勝気な性格をしていた事もあって、ある時些細な理由で池脇竜二と衝突した。こてんぱんにのされた名張はその後関西へと引っ越していったが、やがて成人した頃には人相から体格からその全てが様変わりしていた。 「なんか、俺のせいだとか言ってる奴もいて」  VIPルームの壁際へ誠を避難させ、彼女の隣に立った竜二がそう愚痴をこぼす。 「竜二さんの?」 「俺に言わせりゃ、いやいや俺じゃねえだろ、翔太郎だろそこは!って」  名張としては、その両方だった。喧嘩で負けた竜二や、自分に不名誉なあだ名をつけた翔太郎に対するリベンジを胸に誓ってはいた。だが名張も元々真面目さやストイックさに欠け、独学で上半身のみをせっせと鍛えたせいで昭和のプロレスラーのような体形へと変貌していった。さらには厄介な事に、ヤクザ稼業へと身をやつした後、非合法な薬物を用いて強制的な筋肉増強を図る、あるいは痛覚を飛ばしているなどの噂もあった。 「なんにせよ昔の面影はねえなあ。あるとすりゃ、色白モチ肌っつー事くらいじゃねえか?」  この期に及んで、そういう冗談言うんだ、この人。  真剣味の足らない竜二の言葉に呆れながら、誠は祈るような目で翔太郎を見つめた。  名張は掴んでいたカウンターを押し戻し、そのままぐいと力を込めて脇へ移動させた。備え付けでないとは言え、重厚感のある、横幅二メートル以上の木製バーカウンターである。翔太郎はウィスキーボトルを一瞬唇から外し、二度見した。……それ、そんな風に動くもんなんだ? 「殺していいんだろ?」  左斜め後ろを振り返り、美央に向かって名張がそう尋ねた。しゃがれて陰気な声だった。美央は引き攣った笑顔を頷かせ、 「もちろーん」  と高い声で答えた。  名張が翔太郎を睨みつけ、腰を低く落とした。そして体の後方で、名張の左足が床をぐっと蹴り込もうとしたその瞬間、翔太郎が自分の膝をウィスキーボトルで叩いた。  ボトルの砕け散る音がして、反射的に名張が飛び出した。翔太郎は右手に握ったウィスキーボトルの王冠を、左足を前に踏み込ませながら突き出した。翔太郎に向かって突進した名張はぎょっとして急停止するも、割れ瓶特製の王冠がスキンヘッドの一部を掠めた。 「いたッ!」  思わず身を引いた名張の鼻先に、翔太郎の靴が迫っていた。名張は目を見開きながらも額を突きだして翔太郎の蹴りを受け止め、彼の右足首を掴んだ。掴んだ瞬間翔太郎の左足が名張の顔面に飛んで来た。分厚いブーツの底をまともに目に受け、名張は顔を押さえて後退する。 「ぐぐぅ」  視界を奪われると同時に後頭部まで突き抜けるような衝撃をくらい、名張が恨みのこもった声をもらした。  翔太郎は止まらなかった。左手を伸ばしてスキンヘッドを掴むと、驚き抵抗する名張の身体を引き寄せて膝蹴りを叩き込んだ。翔太郎の膝はちょうど名張の左胸の下あたりに直撃し、言葉にならない声を発して名張は体をくの字に折った。  軽いステップで移動した翔太郎の目の前に、名張の無造作な背中が丸見えだった。翔太郎はまだ手に持っていたウィスキーボトルの王冠を名張の背に突き立てた。一瞬の間があり、名張の着ていたシャツが血に染まる。 「ぎゃあッ」  悲鳴を上げて反回転する名張の顎に、右フックの軌道からくる翔太郎の右肘が炸裂した。名張の顔面が高速で右回転し、百キロは超えるであろう肉塊が後方へ倒れながら宙を飛んだ。  ―――もう、めちゃくちゃだ。  誠は呆気にとられて微動だにできない。そして美央は最初の一撃、つまり翔太郎がウィスキーボトルの王冠を突き出した瞬間から、怒りのこもった表情を浮かべていた。体がごついとか、ヤクザとして修羅場をくぐっているとか、それ以前の話だった。 「なんなんだよ」  美央がそう呟くのも無理はなかった。一見どこにでもいそうな優男が、伊澄翔太郎が強すぎるのだ。 「最初っからピストルでも撃っとけばいいのに」  美央はなおもそうなじって名張に背を向けた。自らで移動させたミニバーカウンターに激突し、名張の身体はロープ際に追いやられたレスラーの如く、そのままだらりともたれかかった。  フー。フー。フー。  痛みなのか、怒りなのか。名張の口から猛々しい息遣いが発せられている。翔太郎は左手に持ち替えたウィスキーボトルの王冠を足元に落とし、右足の踵で後方へ蹴り飛ばした。翔太郎はそのまま一歩、左足を踏み出したが、咄嗟に思いとどまり誠を見やった。すると気を利かせた竜二が誠の肩を掴んで振り返らせた。  翔太郎が走り出し、助走を付けて飛び上がり、両足を揃えた。  誠が両手で顔を覆った。  ああ、後ろの壁は、鏡張りだったわ。  竜二が気付いた時には遅かった。木製のミニバーカウンターが粉砕音を轟かせ、翔太郎の両足とともに名張の身体が減り込んで消えた。  誠は顔を覆った指の隙間からその光景を目撃し、震え、恐怖し、そしてほんの少しだけ「かっこいい」と思った。
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