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ピストル
「あー!」
カウンターが砕け散るのと、侵入して来た男がそう叫んだのはほぼ同時だった。しかしタイミングが合いすぎて、誰も男の登場と叫び声には気が付けなかった。
心底がっかりした様子で顔を背けていた美央が、名張の生存確認のためにそろりとバーカウンターに歩み寄った時、いきなりその男が視界に飛び込んで来たので驚いた。
「誰ッ!?」
次いで竜二と誠が振り返り、膝をついていた翔太郎がバーカウンターの側で立ち上がった。現れたのは、全身を上下させ、顔から大量の汗を滴らせた山規組の三井であった。
「お、お前」
三井は目を見開いて美央を凝視し、震える指先を彼女に向けていた。
「あ」
誠が声をもらし、三井の視線が彼女へ移る。
「うわあー!」
三井は震えながら悲鳴のような雄叫びを上げ、誠を指さした。
「見つけたぞー!お前らー!親父のピストル返せー!」
VIPルームは静まり返り、煙草に火をつけた翔太郎のライターの音だけが、カッチ、と虚しい音を立てた。
……ピストル?
誠と竜二は首を傾げ、翔太郎は微笑みを浮かべて美央に視線をやった。
「あ!あの時の!」
美央が三井に指を差し返し、叫んだ。
「セキタン!ほら、あん時のサラリーマン!」
言うな。今言うなよ。
誠は翔太郎に知られたくない焦りと、犯罪者として逮捕される現実的恐怖に襲われ全身から汗が吹き出した。当然、忘れていたわけではない。しかしその後色々なことが一度に起こり過ぎて、意識の表層に上って来る事がなかっただけなのだ。美央と二人でこの男から現金を騙し取ったことを、忘れられるわけがなかった。
「お前ェ!絶対に返してもらうからな!命に代えてでも返してもらうかんな!」
三井は目に涙を浮かべて唾を飛ばし、同時に大量の汗も飛ばした。すると美央が三井に指を差したまま、冷静な声でこう言う。
「伊澄さん。その男、やっちゃってください」
―――え?
竜二と誠がぎょっとして美央を見つめる中、
「全米が感動の渦に包まれるくらい、全力でお願いします」
そう言って美央は完璧な笑みを浮かべた。
翔太郎は、っは!と声に出して笑った。「まじで面白いなあ、お前なあ」
バーカウンターがさらに崩れ、その中から名張が立ち上がった。
「あー!」
三井がまた叫び、今度はその名張を指さした。
「お前こんな所で油売ってやがったの、か、よ……お前大丈夫か?」
汗だくの三井が心配するのも無理はない。何とか立ち上がりはしたものの、名張の身体は血と無数の傷に覆われてフラフラと揺れていた。顔面は赤黒くはれ上がり、御自慢のスキンヘッドからは真新しい血が流れている。
「お前、なば……」
名張だよな、そう確認しようと三井が口を開いたと瞬間、名張は前のめりに倒れ伏せた。
「情報が多すぎる!」
三井は叫び、混乱しきった顔で髪の毛を掻きむしった。
「うるせえなあ、さっきから。お前はどこの喜劇役者なんだよ」
竜二がそう言うと、三井はハッとした顔を上げて両手の指先をワナワナと動かした。
「あ、あ、あ、伊澄、池脇、どっちがどっちだ!?」
ああ?
突如名を呼ばれ、翔太郎と竜二が顔を見合わせた。
「どっちでもいい、どっちがどっちでも、どっちだっていい! 俺は今しがた『合図』に行ってきた。そこでアサミカオリという美熟女に会って話をした!」
美熟女!?
あいつ、二十八……。
「ここへ行って二人を呼んで来いと頼まれたんだ!店にいた他の二人はもう出て行った!だけど俺が本当に頼まれた話はこうなんだ!」
わけわかんねえ。
誰か通訳してくれよ。
ピストルの話はどこいったんだよ。
汗すげーな。
翔太郎と竜二は、聞いちゃいられないとでも言いたげに、俯いて盛大な溜息を吐き出した。しかし三井の出方次第では人生の行く末が決まってしまうかもしれない誠は恐れおののき、三井の汗だくの顔から目が離せなかった。
三井は両肩を上下させながら、こう叫んだ。
「て、手島さんがあんたらに助けを求めてんだ!」
竜二と翔太郎が、クラブ『メリオスボール』の階段を駆け下りる。二人の前に美央が飛び出し、歩道に立って両手を上げた。すぐに彼女の目の前に、一台のタクシーが滑り込んできた。
じゃ、私はこのへんで。
お役御免とでも言いたいのだろう。一歩下がって翔太郎達に道を譲る強かな美央に対し、しかし翔太郎も竜二も全く気にする素振りを見せなかった。傍らに付き添う三井の話に、真剣な顔で耳を傾けている。
最後に店を出てきた誠は美央の横に立ち、
「話がある」
と言った。両手を後ろに回し、大人しく翔太郎達を見送る美央は、
「偶然。私も」
と含みのある声を出した。
だがその時、三井の口から不穏な言葉が聞こえて来た。リッチなんとか。マスター。白髪の爺さん。ウェイターがやられて……。その瞬間美央はかつてない程取り乱し、青ざめた顔を翔太郎と竜二の間に強引にねじ込んだ。
「ニイちゃん!? ニイちゃんがどうしたって!?」
三井は一瞬「ニイちゃん」が何を意味するか分からず、怪訝な表情だけを浮かべて押し黙った。
「新永がやられたらしい」
と、代わりに竜二が答えた。「相手はエンジンって奴だそうだ。ちょっと行ってくるわ」
タクシーに翔太郎と竜二が乗り込み、助手席のドアを三井が開けた。しかしその三井を背後から引き摺り倒し、
「私も行く」
と言って美央が助手席に乗りこんだ。三井は歩道に激しく尾てい骨を打ち付け、涙と汗を飛ばして転げまわった。
おい誠!
パワーウィンドウを開きながら翔太郎が声を上げた。その目は茫然と立ち尽くす誠を睨んでいる。
「早く乗れ、お前も来い」
だがその声は、これまでと変わらず噓のように優しかった。
「あいついなくても平気か?……ま、平気か」
走り出したタクシーの車内から、取り残されてじたばたと足掻いている三井を振り返り、竜二が独り言ちるように呟いた。隣に座る翔太郎は懐から煙草を取り出してくわえながら、
「あれ多分、山規だな」
と答えた。竜二は振り向いて翔太郎の煙草を奪いさり、反対側に座る誠に手渡した。
「なんで分かんだよ」
「喋ったことはないけど、事務所で顔を見た事がある。随分前だけどな、そん時も汗かいてた」
「あいつ、ロリコンのヘンタイだから」
助手席に座る美央が、前を向いたままそう断言した。
美央、と誠はたしなめるも、翔太郎も竜二も三井の性癖について議論するつもりはなかった。
「ピストルってなんだよ」
隣に座る誠に、翔太郎が尋ねた。
「……わかりません」
誠は思い出そうと試みるも、やはり心当たりはなかった。
おい。
竜二が自分の前に座る、助手席の美央に向かって声をかけた。
美央は前を向いたまま黙っている。
おい。
そう言って竜二が助手席のシートを後ろから突いた。
「言えるわけないでしょ!」
美央は勢いよく振り返り、「ここタクシーだよ!? 言えるわけないじゃん!」と喚いた。
すると竜二は「あー」と声を上げ、翔太郎が身を乗り出して運転席に声をかけた。
「黙ってられるよな、ミハイル?」
ぎょっとして美央が見やると、運転手は被っている帽子のツバをくいっと持ち上げ、
「ダー!」
と勢いよく答えた。若く、薄い唇に微かな笑みを浮かべたロシア人だった。
思わず美央は誠と顔を合わせ、そして頭を振って諦めた。
美央はこの街に来た当初、何一つ自分の思い通りにならない事が不思議で仕方なかった。うろついている街の男たちは地元と変わらず、美央に群りほいほいと頼み事を聞いてくれた。しかし自分の都合がいいように事を運ぼうとすると、惜しい所で皆一様に首を横に振った。
「それはむりだよ」
「やめときな、そんなこと考えない方がいい」
「近づかない方が良いって」
性別、年齢、容姿、したたかな計算高さ、全てを駆使して上手く立ち回って来た。そんな自分に対する自信と信頼が、この街へ来た途端綿あめのようにふわふわと、頼りないものへと変化していったのだ。だが、その理由が今はっきりした。
文字通り、住む世界が違うのだ。この界隈で唯一、エンジン一派が落とせない街であることには理由がある。翔太郎たちがいるからだ。この男たちがいる限り、この街では何一つ美央の思い通りにはならない。どれほど名の通ったヤクザを呼んで来ようが、あるいは欲求不満の馬鹿男をたらしこんで懐柔しようが、何ひとつ満足のいく結果を出せなかった。
偉そうに説教を垂れていた行きつけの喫茶店従業員は翔太郎に頭を下げ、クラブのVIPルームでは顔を出した途端若者たちが逃げた。挙句、ロシア人まで出て来た。たまたま止めたタクシーの運転手が、ロシア人。
ロシア人までもがこの男達の仲間だっていうの?
「っはは。もー全米がー、だめだこりゃぁー」
美央は助手席のシートに体を倒し、足を投げ出してずるずるとだらしなくずり下がった。
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