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ふたりのエレジー
美央の話は、こうだ。
あの日、誠と二人で三井をホテルに連れ込んだまでは良かった。先にシャワーを浴びさせ、その隙に財布から現金と運転免許証を抜き取った。だが問題は、三井の持っていたショルダーバッグの方だった。いかにも大切そうに小脇に抱えていたものだから、きっと金目のものが入っているに違いないと思った。しかし誠の目を盗んでそっと開けたバッグの中には、ぎっしりと。
「見たこともないくらい大量の、ピストルが入ってた」
バッグ一杯に、拳銃が押し込まれていた。
それが何を意味するのか、その時美央は理解していなかった。だが条件反射でバッグの中から目につく一丁を抜き取り、あとは元通りに戻してそのまま部屋から逃げたという。一つくらいなら気付かれないだろうし、後々になってこれも何かの証拠として役に立つ事があるかもしれないという、相手の免許証を携帯カメラに収めたのと同程度の認識だった。しかしその計算高さが、裏目に出た。
「逃げた後んなって、相手がサラリーマンじゃないってことがようやく分かって、動転した。セキタンをまずい事に巻き込んだって、そう考えたら、このままなんも知らないフリで隠しきれるわけはないって思ったし、パニックになった。そしたらエンジンの店に帰った途端ベイロンがやられたって聞いて、ああ、やばい、まずいって」
「それでお前、一人で山規に乗り込んだのか」
翔太郎が尋ねた。
そこまで思い至らなかった誠は驚き、身を乗り出して美央の腕を掴んだ。
「どうして。なんで一人で!?」
「おかしいとは思ったんだよ」
と、尚も翔太郎が続ける。隣の竜二に向い、
「こいつさ、俺んとこきて言うわけだよ。友達がヤクザに襲撃されたかもしれない。話を聞きに行った自分も酷いことされて、だからなんとかしてもらえないかって」
そう説明する。すると竜二は一呼吸置いて、
「……なにを?」
と首を傾げた。
「だろ? ひとつひとつ聞けば、誰かに助けを求めたくなるそれっぽい理由にはなるんだよ。ヤクザの襲撃、自分もやられた。な。俺らのことをどこで聞きつけたのは一旦脇へ置いといてもさ、まあ、なんかしら理由はあるんだろうよ。もしそれが全部本当の話だってんならな。ただお前」
翔太郎は美央に向かって、
「一番重要な事言わなかったよな」
と、そう言った。美央は真央を向いたまま答えなかった。右手を両目に当てて、視界を覆っていた。
「俺にどうしてほしかったんだよ」
翔太郎のさらなる問いかけにも、美央は答えなかった。
「お前が話を持ち掛けてきた時、俺はすぐに気が付いた。気が付いたし、ちゃんと答えもしたよな。山規組はそんな性根のねじ曲がった男達じゃないし、お前が言うような、女子供に手を出すような連中じゃないって。あん時お前は泣いてたけど、何も言い返してはこなかった。友達がヤクザに襲われたってのも、俺がベイロンてやつを潰した話なんだろ? お前らの街でのゴタゴタなんかどうだっていいし、俺は俺の理由であのガキを潰した。そしたらだよ、後にはなんの問題も残ってないよな。ただお前が、あの三井って男からピストルを奪ったっていう事実だけが残る。お前、本当は俺にどうしてほしかったんだよ」
……じゃない。
か細い声に、翔太郎は表情を曇らせた。
美央がなんと呟いたのか、聞き取れた人間はいない。その代わり、彼女が泣いていることだけは全員に伝わった。
「全部、ひとつに繋がってると思った。ピストルも、ベイロンがやられたことも、エンジンの店が前にあの街にいたヤクザのものだったってことも。いつか復讐のために戻ってくるっていう話も聞いてたし、ああ、これはそういうことなんだって思った。私はなにか、ヤクザが今から戦争始めるために用意した武器を見ちゃったんだって思った。ベイロンがやられて、怒り狂ってるエンジンを見た時に、自分の身は自分で守んなきゃいけない。巻き込んだセキタンをこれ以上危ない目にあわせちゃいけないって、そう思った。たまたま、伊澄さんに似た人を知っていて、その人が昔山規組にいたって聞いてたから、話だけでも聞きにいこうと思って会いに行った」
竜二が翔太郎を見やる。自分に似た男が山規組にいたなどと言う話は聞いたことがなく、翔太郎は黙って首を横に振った。
「なんなら、その時にこれ拾っちゃったんだけどって、ピストルも返せるんじゃないかって思ってた。だけど、私が間違ってた。ヤクザは、そんなに簡単に話の通じる連中じゃなかった」
話を聞いていた翔太郎の目が、何かに気付いたように見開き、光った。
「お前、まさか」
竜二と誠の視線が、顔色の変わった翔太郎を見つめた。
「お前、誰に会いに行ったんだよ」
「え?」
誠は驚き、美央を見やる。
「お前、山規組に会いに行ったんじゃないのか。もしかして……」
翔太郎がそこまで言った時、竜二が気付いて頭を振り、俯いた。奥歯を噛み、溜息を洩らすその音色は苦汁に満ちていた。
「……藤和会か」
そう竜二がつぶやいた。
エンジン一派に追いやられ、一時的に逃げおおせた山規組が頼った先は、昭和の時代から関西一円でその影響力を発揮し、全国規模にまで名を轟かせた広域指定暴力団の、次世代組織とも呼ぶべき『藤和会』であった。美央が出向いた先で待ち構えていたのは、山規組ではなかったのだ。
「だから、メバルなのか」
翔太郎達が導き出した答えを受けて、美央は静かに泣き始めた。
「私はなにも、ウソなんて言ってない。ウソなんかじゃない」
涙に濡れた美央の声に、誠は全身が硬直する程の震えに襲われた。
翔太郎から、美央が山規組の組員にレイプされた話はウソだと言ってもらえて、腹が立つと同時にやはり心底安堵し、嬉しかったのだ。だがここへ来て一気にそれが覆った。相手が山規組でなかったからといって、なんの気休めにもならない。それは若い誠にとって、女性である誠にとって、恐怖以外のなにものでもなかった。
「ショウタロさん、もう着くよ」
沈黙を破ってそう声を上げたのは、タクシー運転手のロシア人、ミハイル・アリストフだ。
「揉めてるんでしょ。ヤクザか。僕も一緒に行こうか?」
ルームミラーを傾けてそう言うミハイルの肩に手を乗せて、
「将来有望な格闘家が何言ってんだって」
と翔太郎は答える。「プロデビュー前にこんな事に巻き込まれてんじゃないよ。今日俺達を乗せたことも、誰にも言うんじゃいないぞ」
ミハイルは鼻で笑って、苦笑した顔を数度頷かせた。
「俺らは手前で降りるから、お前らはこのまま乗ってどっかへ避難してろ」
竜二の提案に、
「いやだ」
と美央が即答する。
「悪いこた言わねえ。そうしろ」
「いやだ。ニイちゃんの顔見て、必要なら一緒に病院行く」
突き刺すような心痛を伴った美央の告白に、誠は体を折るように縮こまらせていた。美央に起きた厄災が真実であった事と、彼女が一見無謀と思える行動を起こした背景に自分の存在が影響していた事は、病み上がりの誠をふさぎ込ませるには十分な理由だった。しかし竜二の提案をあっさりと蹴る美央の言葉とその口調にも、誠は新たな驚き感じていた。
美央が新永に好意を寄せているのではないかと、そう思ったのは確かに一度や二度ではない。しかし美央が他人に向かってそうと分かる言葉やあからさまな態度を見せたことはなかったし、失礼だとは思うが、美央ほどの女の子が惚れこむ理由が新永にあるようには感じられなかった。自らを損得勘定で生きていると豪語する彼女が、新永に対する思いをここまではっきりと口にする場面には、居合わせたことがなかったのだ。
タクシーが停車し、真っ先に竜二が降りた。後を追うように美央が降り立ち、翔太郎と誠を待たずして二人は先を急いだ。誠はタクシーの後部席でゆっくりと体を起こし、黙って自分を見下ろしている翔太郎に頷きかけた。
「大丈夫。心配しないで。ショウタロさんは、オニツヨイよ」
ミハイルが、そう優しく誠に声を掛けてきた。運転席からこちらを振り返っている彼はヒヤリとするほどの美青年で、誠は幻想的ですらある彼の存在感と思いやりに不意を突かれ、泣きながら何度も頷いた。
「やぱり、僕、ここ残ろうか」
とミハイル。
「いいって。もうカオリんとこ戻ってな」
「うん」
翔太郎は誠の腕を引いてタクシーから降ろし、走り去るミハイルを見送った。気が付けば、誠の良く知る街並みに帰ってきていた。時間が遅いため、昼間と様変わりして見える暗がりの光景に、一瞬は居場所を見失いそうになる。だが今まさに目の前を、パトカーが一台駆け抜けて行くところだった。その先を冷静に目で追えば、ここから『リッチモンド』までは歩いて三分もかからないことに気がつく。
ビジネス街にほど近く、本来であれば人の往来や車の交通量も多いと思われる大通りのはずが、不思議と今は、翔太郎たち二人以外に人影がない。
翔太郎は歩道に立ち、黙って車道を向いている。あえて『リッチモンド』の方角を向かなかったのは、
――― 別に無理して行かなくていいのに。
翔太郎なりの分かりにくい優しさだった。誠は一歩を踏み出せず、翔太郎の隣に立ったまま、その場で静かに泣いていた。
翔太郎が煙草に火を点ける。
「ごめんなさい」
と誠が謝った。
――― この子が謝る声を、俺は何回聞いた……?
翔太郎は答えず、深く息を吸い込んだ。
翔太郎は決して、誠を弱い人間だとは思わなかった。誠の入院中、少しだけ彼女と話をした。誠が両親を亡くしてから、まだひと月半程しか経っていない。良い人達だと言う親戚の家にも居場所はないと感じ、なんとか学校には通えているものの、全く現実味がないそうだ。授業が終われば警察に呼ばれて話をし、進展しない捜査状況を聞かされては失意のまま署をあとにする、そんな毎日だ。
誠はそれでも自らに対し、周りの人間の優しさに生かされていると語った。だが翔太郎にしてみれば、誠にとって安堵出来る居場所がない時点で恵まれているとは言い難く、同じ年の美央はどうあれ、彼女らの周りにいる友人たちは皆どれもが犯罪者まがいの半グレにすぎない。
夜の街で傷を舐め合った不幸な姉弟は、無理心中で足早にこの世を去った。幼く未成熟な誠の心は壊れる寸前であり、そして翔太郎はその有様を自分の目で見ていた。あるいは翔太郎が知らないだけで、誠の周りには『いい人』たちが、本当はもっとたくさんいるのかもしれない。しかし、今はいない。どこにもいやしない。誠が泣いている時、側には誰もいないじゃないか。
それでもまだ、誠はここに立っている。これが強いと言わずしてなんと呼ぶのか。誠を支えているものが一体なんなのか、この時の翔太郎には分からなかった。だがその強さが今こうして、誠を苦しめ続けているようにも見えるのだ。
「この街は、お前に優しくないな」
翔太郎がぽつりと言った一言に、誠はその場にうずくまって泣いた。
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