特別なもの

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特別なもの

 美央はこの時、初めて竜二を怖いと思った。ただそこに座っているだけなのに、自分の命そのものを握られているような、そんな怖さをこの男からは感じるのだ。 「だけど俺はあいつを人殺しにする気はねえ」  その、竜二が言う。「俺がなんとか出来るなら、この足ですっ飛んでってアキラより先にエンジンとっ捕まえて警察に引き渡す。だから、早えとこ本当のこと教えてくれねえか」  知った人間に言わせれば竜二とて、他人の事を言えたものではない程導火線は短い。本来なら胸倉を掴んで恫喝でもすれば手っ取り早く話を聞き出せるのにと、今も内心ではそう思っている。しかし竜二から見る美央という少女は年の割に異常な程頭が良く、力で押さえつけようとしてもするりと身をかわされる、そういう類の女に思えたことも事実であり、あえて大人しく接しているのはその為だった。 「私」 「……」 「一度だけ皆さんを見た事があるんですよ。今回の件より、前に」  美央は竜二を見ることが出来ず、無人の受付を見据えたまま、そう言った。 「その時はまだこの街も今よりは平和で、揉め事や喧嘩の多い街ですけど、それなりに楽しくやってました。私こう見えて計算できる子なんで、上手くやれてる自信もありました。セキタンみたいな美人横において、エンジンみたいなパワーゴリラと適当に仲良くやって、悪さしておこづかい稼いだりして。……いつだったか何かのタイミングで、皆さんが四人揃ってこの街に来ていたことがあって、その時にエンジンの仲間からあなた達の事を聞きました。『あいつらだけは本当、どうにもならないよなって、正直諦めてる。エンジンやベイロンは知らないけど、この街にいて、あいつら四人をどうこうしようなんて本気で考える奴はいない』。そいつ、自分で敗北宣言してるくせに、なんだかちょっと笑ってたんですよ。どれどれー?って、その時私、初めて池脇さん達を見ました。四人で、輪になって、ただ道に立って喋ってるだけでした。すると池脇さんがマイクかなんか握って歌う真似をして、その瞬間ドカンと他の皆さんが大笑いして。喋り声が聞こえる距離ではありませんでしたけど、その笑い声だけは物凄く近くに聞こえて、とても楽しそうでした。恐れられてる割には穏やかで、不思議な人達だなーって、遠目からそう思いながら。今回のことがあって、伊澄さんを頼ったのも、その思い出があったからです。ヤクザをものともしない『ハイウィンド』ですら手が出せないあなたたちなら、なんとかしてくれるんじゃないか」 「だったら」  業を煮やしたように、竜二の語気が強く出た。 「だけど!私は腹が立って仕方がありません!」  言い返されるなど思ってもみなかった。そんな息を呑む竜二の目の前で、まるで音がするほどの大粒の涙が、美央の目から流れ落ちた。 「誰にも頼らずに生きてきた。自分の頭と体だけを頼りに今までやってきた。それなのに、伊澄さんを頼ってみたり、それがダメなら池脇さんにすがろうとしてみたり」 「お前十五なんだろ? そんなもん」 「年なんか関係ない!このままずっと、この先ずっと、人に助けてもらった人生を生き続けるなんて絶対に嫌だ!」  困惑の眼差しを向ける竜二などお構いなしに、美央は叫んだ。 「私は自分を諦めたりしない!」  大人が冷静に投げつけてくる正論なんて聞きたくない。そんなものは必要ない。  美央は両耳を塞いで立ち上がった。しかし塞いだ耳を通過して、コンコンコン、どこからか、ガラスを叩くような音が聞こえて来た。 「俺さ、高校中卒なんだよ」  と、翔太郎が言った。  誠は俯いたまま目を丸くして、「……あ」とほんのわずかに声をもらした。  深夜の病院の、細長い廊下である。  新永と手島が入っている集中治療室の前にはアキラが一人で待機し、彼のまとう空気の重さに耐えかねた翔太郎が、気を利かせて誠を別の場所へと移動させたのだ。大成もオリヴィアも、竜二も美央も、今彼らの側にはいない。 「間違えた。高校中退で、中卒なんだよ」 「……はい」 「笑っていいぞ」  だが誠は困り顔の翔太郎に微笑みで返し、弱々しく頭を振った。 「だからあんまり学生生活に良い思い出ないんだけど、何人かは、今でも付き合いのあるツレや後輩なんかもいて。……別に、学校行けとかそういう説教する気はないからな」  頷く誠に、翔太郎は煙草をくわえて、それから病院である事を思い出し、唇から抜き取った。誠は一瞬、吸ってもいいのに、と無責任なことを思う。 「ニイも……新永もそういう一人なんだけど。お前、あいつと知り合ってどんくらい経つ?」 「一、年、くらい」 「てこたあ、ずっとリッチでコーヒー淹れてるとこばっか見て来たと思うけど。あいつ本当にさ、あんなロックスターみたいな髪形してるくせにただのコーヒー馬鹿なんだよ。それって実は昔からそうなんだけど、手島さんとこで働かせてもらうようになったのってまだこの二年程で。十代の終わりから二十歳頃にかけてのあいつはそれこそただのボンクラで。喧嘩ばっかりして、怪我して、怪我させて。知らないかもしれないけど、手島さんて昔ヤクザだったからさ、その世界に片足突っ込んだ新永を、拾ってくれたのがあの爺さんなんだよ。昔からそういう、ボンクラを育てるのが上手な人でさ。うちのアキラとか、カオリとかも世話になってんだ」  誠は上手く返せる言葉が思いつかず、ただ翔太郎を見つめて、何度も頷いた。 「喧嘩でさ、殴られて血吹くのはさ、そら、あるよ、そういうことは。それは喧嘩する以上覚悟してなきゃおかしいし、新永もそれはそうだと思う。だけどあいつはああ見えて義理堅いし、ブラジル行って自分の農園開くのが夢だってぐらいのコーヒー馬鹿だし、世話んなった手島さんの店で喧嘩なんて、するわけないんだよ。俺はそう思うし、俺達は、全員そう思ってる」  誠は頬を伝う涙を手で拭いながら、何度も頷く。 「だから、手島さんの事も含めて、まだ、あいつを心配するであろう身内の連中には、何一つ報告出来てない。死ぬかもしれないっつーのに、店で喧嘩して頭から血ィ吹いたなんてあいつらしくない話、逆になんて言っていいかわからないんだよ。そこにはなんつーか、疑問しかないから」 「……」  誠はかつて、リッチモンドでキョーちゃんと二人でいる時、関西弁を話す男に因縁を付けられた事を思い出していた。あの時、特に大声を出すでも暴力を振るわれたわけでもないのに、新永はすぐに間に入って男を遠ざけてくれた。誠はその事を、思い出していた。 「なあ、誠」 「はい」 「これでもしあいつが死んだらさ。あいつが抱えた夢はどこへ行くんだろうな」 「……」 「まだガキの頃、とりあえずひと口飲んで下さいって言って、にっがいコーヒー飲まされてな、俺、思いっきり蹴り飛ばした事あるんだよ。あいつ口では謝りながら笑い転げてさ、次、次、超美味いの淹れますからって、言ってた」 「……」 「よくある話だと思うよ、こんなの。分かってるよ、皆そうやって、色んな方向に転げながら生きてることくらい。ニイが特別だなんて俺は思っちゃいない。だけどさ、だけどニイにとってはただその夢だけが……」  翔太郎はしかしその先を言わず、ぐっと言葉を呑み込んだ。  翔太郎の強い眼差しが何を意味するのか、それは誠にも分かるような気がした。翔太郎が言葉を呑み込んだ優しさも、人としての真面目さも、男としての器の大きさも、そこにはあるような気がした。何が、どんな風にと問われても、十五歳の誠が言葉で表現できる事は少ない。しかし、ほとんど触れあうような距離で座っている翔太郎の呼吸、体温、目、声。全てが、誠にとっては説得力に満ちていた。これまで見て来た男たちとは根本的に違う。翔太郎にあるのは『覚悟のような何か』なのだと思われたし、若さを理由にした勢いも、軽はずみなノリも皆無だった。  誠は涙を拭いながら、思うのだ。  例えこの人が何を決断したとしても、私はそれに反論出来ない。それが例え、どんなことであったとしても、彼を否定する気にはならないだろう。彼はきっと、仲間を傷つけられた事で怒っているわけではない。彼はとてつもなく深い悲しみに落ち込んでいるだけなのだ。その悲しみが導き出した答えが法に触れる事だったとしても、私はきっと、彼について行くだろう。
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