計算外

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 ウソだ!  それまで微動だにせず、上山の足元でボロボロの体を横たえていた三井が急に叫んだ。そして興奮に体を上下させながら立ち上がると、上目で睨み付けるように美央を見据え、震える右手を上げて指さした。 「あの女、ウソをついてるぞ!」 「はあっ!?」   美央はそれまで浮かべていた小悪魔のような笑みを消して眉間に縦皺を刻み、まさしく豹変した顔つきで三井を睨み返した。 「何が、ウソだって?」  見る間に美央の両目に涙が浮かび、そのまま病院のフロアに音を立てて流れ落ちた。 「あんたなんかに何が分かるのよ!」 「お前の話は一瞬にして火が付いたように噂が広まった。だからその話は当然俺の耳にも入ってる。さすがにそれが今目の前にいるお前だってことまでは知らなかったけど、けど少なくともあの騒ぎを起こしたのがウチの組の連中じゃないってことだけは間違いない!誓って言える。うちの組の人間は、女子供に乱暴を働いたりなんかしない!そもそもお前が現れたのはうちの事務所でも、藤和会事務所でもないんだ!」  美央の目から涙が止まり、腕組みしながら事の成り行きを見守っていた竜二が顔色を変えた。  『メリオスボール』から『リッチモンド』へと向かうタクシーの中で、美央を襲ったという暴力団は山規組ではなく藤和会なのではないか、という話になった。もしそうであれば、若干十五歳の少女が名うてのヤクザであるメバルを連れて現れた事にも合点がいくし、強姦されたという話も相手が藤和であるなら、不可解な点は残るにしろまだ理解出来る余地はあった。だが三井は、相手はそのどちらでもないと言う……。 「神に誓って言うよ、あんたを襲ったっていう連中は山規組じゃないし、藤和会の連中でもない。そもそも、あんたは本当にあの場所がどこだか分かってて現れたのか?」  三井の問い掛けに美央は息が詰まったような顔で何度も目を瞬かせ、質問の意味を反芻した。誠には美央が本当に混乱しているように見えた。誰もがただ黙って二人のやりとりを見守るしかなかい状況の中、美央は言う。 「ち、ちなみにさあ、一瞬にして広まったっていう、その噂って、何」  すると三井は口を尖らせ、 「天使降臨」  と呟いた。  はあ? しらけるような場の空気に、三井は慌てて先を続けた。 「ヤクの売人だよ! おしゃかになった子飼いの売人の代わりとして、めちゃくちゃ可愛くてめちゃくちゃ若い女の子が名乗りを上げてきたって!」  薬の、売人。  その言葉を聞いて、全員が同じ名前を思い出した。この場にいる上山鉄臣の姪が被害にあい、報復措置として翔太郎が自ら手にかけたという覚醒剤の売人、『ハイウィンド』のナンバー2、ベイロンである。おしゃかになった子飼いの売人というのがベイロンを指すならば、その代役として美央が手を挙げたというのは、一体どういう意味なのか。 「ウソよ!」  烈火のごとく美央が言い返した。 「じゃあ言ってみろよ!」  負けじと三井が吼える。「お前なんの為にあの場に行ったんだ!聞いた話じゃその現場ってのは事務所じゃない、大阪にあるなんとかってクラブだろ! 右も左も分からん東京もんが、なんだってそんな所に顔出す必要があるんだよ。そもそも、俺は忘れてないからな!俺から盗んだ親分のピストルを今すぐ返しやがれ!」  激しく責め立てる三井の身体を、アキラが両手で掴んで引き摺り倒した。肉食獣が得物に飛び掛かるような速度だった。 「ぐちゃぐちゃうるせえぞお前。おしゃべりはもういいからよ。とっとと俺をエンジン所へ連れていけ」  ええ? 三井はアキラの言葉が理解出来ず、酷く困惑した顔で肉食獣を見上げた。突然現れた三井という男と美央のやりとりは、アキラにとっては全てが無意味だった。上山が連れて来たこの男から、手島と新永を襲った連中の情報が聞き出せるものと黙って耳を傾けていたのだ。しかしその我慢も限界を超えた。  竜二と翔太郎が駆け寄ってアキラを止めに入るも、アキラは左腕を振り回しただけで二人を遠ざけた。 「お前はなんなんだよ。エンジンの仲間か、敵か、どっちだ」  顔を寄せて選択を迫るアキラに全身を震わせながら、本物のヤクザが泣き出しそうな勢いだった。相手は一回りも年下の堅気であるにも関わらず。 「お、俺は、手島さんに頼まれてあんたらを呼びに行ったんだぞ。そんなの、考えなくてもわか」  三井の横面を、アキラの拳が上から叩いた。振り下ろされた拳は床に激突する程の勢いがあり、三井は悲鳴をあげる暇もなく失神した。 「あーあ」  竜二は片手で顔を覆い、翔太郎は唇を真一文字に結んで溜息を付いた。次いでアキラの目が、美央を睨んだ。 「ちょっと、ウソでしょ」  美央は口ごもり、壁に背中を押し付けて怯えた。そこへバタバタと駆け寄る足音が聞こえ、騒ぎを聞きつけた警備員と男性スタッフ数人が現れた。深夜の病棟である。救急搬送された患者の付き添いとは言え、声を荒げて騒いで良い理由にはならない。ICUに担ぎ込まれた新永と手島の家族でもない友人知人の類が、他の患者にも聞こえる音量で騒ぎたてたのだ。 「事情を考慮した上でも出て行ってもらうほかありませんよ。でなければ警察を呼びます」  という強めの警告を受けるのも致し方なかった。  頭に血の昇っているアキラはそれでも喰って掛かろうとした。実際大声を上げて騒いだのは三井と美央の二人であったが、この場は誰が見てもアキラが不利だった。竜二、翔太郎、大成の三人でアキラの首肩腕をガッチリと掴んで頭を下げさせ、「すみませんでした」と大人しく謝罪した。  警備員たちが戻って行った後、竜二たちは相談し、この場には大成と全く動く事の出来ないオリヴィアの二人を残して場所を移動した。   深夜三時を回った。上山が病院まで乗って来た黒色のバンに、アキラと上山と三井、そして誠が残った。翔太郎と竜二は二人で美央を伴い、病院駐車場の隅で詳しい事情を聞くと言って離れた。  バンに残った誠は車内から心配そうに彼ら三人の様子を見つめている。心配だったのは美央の安否ではなく、強かな美央に翔太郎たちが言葉巧みに翻弄されやしないかという事の方だった。  車内には暖房による風の音がゴーゴーと聞こえ、わずかだがカーオーディオから音楽が流れていた。 「消せ」  助手席に座るアキラがそう言い、ドライバー席の上山は黙って言われた通りにした。  誠は『合図』で初めて会った時に感じた柔らかさやとっつき安さが、今のアキラからは微塵にも感じられない事に緊張を覚えた。しかしその理由が単なる彼の人間性や粗暴さから来るものでないことはとっくに分かっていたし、誠は誠で考える事が多すぎて、他人の変化を気に掛ける余裕がなかった。  意識を取り戻した三井は殴られた頬を押さえたまま、後部席からアキラの後ろ姿を見つめた。 「あんた、相当やばいな」  そう言った三井に、考え事に集中していた誠でさえ、ぎょっとなって顔を上げた。……あれだけ強烈に殴られておいて、まだそんな事言う?  アキラはゆっくりと振り返り、三井を睨んだ。 「俺がお前を殺さないと信じてるからそんな事言ってんのか」  三井はわずかに震えながら、違う、と答えた。 「あんたは本当に人を殺せるんだろうな。だからこそやばいって言ってるんだ。ヤクザってのはな、ヤクザであるからこそ人を殺さないって場面もあるんだよ。だけど今のあんたにはそういう楔がないだろう。それは、やばい事だよ」 「お前知った風なこと言うなよ」  身を乗り出して上山が言い返した。 「ヤクザだからこそ、なぁ」  アキラは上山の身体を押し戻し、「教えてくれよヤクザ屋さん」と尋ねた。視線は前を向いたままである。 「なんで人を殺しちゃいけないんだ?」  お前。思わず三井はそう漏らし、同じ後部席の反対側に座る誠を気遣うような視線を向けた。誠は背もたれに体を預け、何も聞いていないかのような表情で自分の膝あたりを見ている。 「善悪の話してんじゃないよ」  とアキラは言葉を繋いだ。「俺は自分が警察の世話になろうがそんなことどだっていいんだ。嫌なのはさ、仲間だと思ってる人間やそういう奴らの人生をめちゃくちゃにされて、ただ黙って指くわえて見てることなんだ」  アキラの口調は穏やかでこそあったが、有無を言わさぬ固い信念に覆われているように聞こえた。それはどうだろうか、たとえば自分はこう思う……そんな他人の提案などまるで寄せ付けない、それは鋼鉄の意志だった。 「手島のじいさんには、ホントいい思いさせてもらった。前に俺、カオリと二人で日本中を旅した時期があってさ。でも金がないもんだがら、行く先々でバイトしたり、日雇い入ったり。カオリは歌を歌えるからね、そういうことしながら、二人っきりで旅をしたんだ。だけど歌うにしたって、路上でやろうもんなら顔指すことだってあるから、やっぱりいつもってわけにはいかない。どうしたって金を作れない事だってあったし、上手く仕事が見つかんない事もあるんだよ。そうすっとさ、どっかでずっと見てたんじゃねーかってタイミングでさ、人伝手に手島のじいさんから連絡入るんだよ。今お前らのいるあたりに昔なじみの友人がいて、ちょっと困ってるらしいから、行って助けてやってくれないか、ってね」  アキラが煙草を咥えると、隣の上山が無言で火を付けた。 「……窓開けてやれ」  と小声でアキラが言う。上山は慌ててスターターを捻り、後部席の誠の側だけパワーウィンドウをスライドさせた。 「で、実際行ってみるとさ、それがなんと旅館なわけよ。従業員が急に腰痛めたかなんかで人手が足んないから、ちょっと部屋の片づけ手伝ってくれないかーって。その代わり、晩飯と風呂と、部屋を用意するからさーって。……っはは、そんなもんさあ、俺らにしてみたら仕事でもなんでもねえよ。なんだよこのご褒美はっつって。いやあ、あん時は嬉しかったねえ。けど同時にさ、あー、俺は駄目な奴だなあ、カオリに満足な旅をさせてやることも出来ないで、人の世話になってばっかりでって……柄にもなく落ち込んだりして。でもそういう日々の中で、そういう時だからこそ見えてくるカオリの気遣いとか、手島のじいさんの、あれはなんつーのかな、包容力とか、懐の深さとか。そういう思い出一個一個が大切な俺の経験になって行ったんだ。俺なんて中卒だしさ、一人でやれることなんて何んにもないけど、だからこそ人の優しさに報いる時には、全力でいかなきゃバチ当たるよなーって。今はそういう風に思えるんだよ。その全力ってのはさ、もう本気の本気、全身全霊じゃないと噓なわけだ……なあ、ヤクザ屋さん」  突然呼ばれても、三井はどう返事を返してよいのか分からなかった。しかしアキラは返事を待たず、首だけで後部席を振り返り、こう言った。 「手島のじいさん死んだら、お前ら全員殺すからな」
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