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1.5人の城
線路脇の、築年数の経った、お世辞にも綺麗とは言い難い部屋だった。最近は気温が下がってきたせいで見なくなったが、春から夏の間は虫たちが我が者顔で畳の上を散歩している、と翔太郎は笑う。
誠は顔をしかめながらそんな話を聞いていたが、実際には内容の半分も頭に入ってこなかった。何分かに一回、そう遠くない場所から踏切のサイレンが聞こえて来る、薄暗くて狭い、翔太郎の部屋。初めて足を踏み入れる、煙草の匂いが染みついた、知り合って間もない男の部屋。
誠は何度も瞬きをする。目の前がチカチカする。疲労と、興奮と、緊張と、ちょっとの怖さ。寒くもないのに体が震え、それなのに頬が自分で分かるくらい熱く火照っていた。
「ああー、長え夜だったー」
ため息交じりにそう言って、翔太郎が窓際に置かれた背の低い黒のソファに座り込んだ。座った瞬間、もう煙草に火を付けている。誠は翔太郎の手の中にあるキャスターを羨ましいと感じながら、気取られぬようにそっと微笑んだ。
「適当にやんな。汚ないとこだけど」
「……すみません」
「うっせー謝んなよ、自分で来たいとか言っといて。あー、もう朝だー」
指先で、変色したレースのカーテンを摘んで外を眺める翔太郎の首筋。誠は吸い寄せられるように見つめながら、ゆっくりと畳の上に膝を折った。
「風呂も便所もあるけど、着替えとかどうすんだ?」
「ああ……また、今日にでも取りに戻ります」
「……え、お前ここに住むの?」
「え?」
翔太郎としてはそういうつもりで着替えの心配をしたわけではなかった。若く身綺麗な子であるから、二日と着替えないのは苦痛だろう、そう思っただけである。誠としても、特に他意があるわけではなかった。どうしても今すぐ着替えたいわけじゃない、その程度の返事だった。取りに戻る、という言葉のチョイスが二人の意思疎通を食い違わせた、ただそれだけだったのだ。
「いえ、そんな」
視線を外した誠の顔が、やたらと赤かったこと。
翔太郎は鼻から息を吸い込み、
「いや、別に」
と言葉を濁した。「けどお前、俺そんなにこの部屋帰ってこないぞ」
「あの、だから」
「でもお前にとっちゃあ、その方がいいか」
「いや、え?」
「ま、何でもいーや」
「……はあ」
噓だ、と誠は思った。噓みたいな話だと思った。
―――このまま何も分からない振りして居座れば、私はずっとこの人の側にいることが出来る。きっと美央もエンジンもこの部屋を知らない。あの街の連中、誰ひとりここを知らない。私は誰にも見つからず、憐れまれることもなく、ひっそりとこの人とこの部屋で生きてくことが出来る。ほんとにこんなことがあっていいの?
どことなくキョーちゃんたちの部屋を思わせる翔太郎の城で、誠は小さくなりながら明日のことを考え始めていた。学校はどうしよう、親戚の人にはなんて言おう、ここに住むなら食費や光熱費も入れなくちゃ、でもそのお金をどうやって工面しよう、両親が残したお金に手をつけるか、それは許されることなのか……。
「やっぱ、俺のせいかもしれないな」
「……」
はっきりとは聞き取れなかった。翔太郎のそれは独り言のようで、誠は返事をすべきかも分からなかった。顔を上げて見やると、翔太郎は煙草を咥えたまま天井の染みを見上げていた。
「合図で、竜二たちが怒ってただろ。勝手に暴走してんじゃねえよって」
「……」
「俺、昔からそういうとこあるんだ。後先考えないっつーか。別に自慢でも何でもないけど」
「……ベイロンのことですか?」
「ああ」
傍らの灰皿で、吸い終えた煙草の火をもみ消す。
「翔太郎さんは、何も悪いことしてないじゃないですか」
「っは、いや、殆ど無抵抗だった奴病院送りにしたけど」
「でも」
「テツっていう昔からの後輩がいて。あの、後から病院にやって来た革ジャンの男な。あいつの従妹がまあ俺たちに似てヤンチャでさ。別にそれはどうだっていいんだけど、間の悪いことにベイロンの扱う薬に嵌っちまったらしくて。まだガキだし、別に警察に突き出しても良かったんだけど、テツの泣いてる顔見ちゃって。ルイの……その従妹の、青白い顔見ちゃって」
「翔太郎さんは悪くないです!」
「そういう話じゃないって」
「だって……」
「もし俺がベイロンに手を出さなけりゃ、ひょっとしたらニイは今も無事だったのかもしれない。手島さんは無事だったかもしれない。エンジンの報復を受けずに済んだかもしれないんだ。竜二たちもこういうことを恐れて、勝手な行動取った俺に怒ってたんだよきっと。少なくとも、俺一人が先走るよりは、いい結果が出せたに違いないんだ」
「それは」
そうかもしれない。しかしそうじゃないかもしれない。分からない。誠には分からなかったが、翔太郎が悔いる姿を見るのが嫌だということだけは分かった。例え翔太郎の言った話が全部正しいとしても、それによって彼が後悔する姿を見るのが嫌だった。
「私」
「……」
気が付けば誠は、拳を握って膝立ちになっていた。翔太郎は泣いている誠を見つめ、唇から二本目の煙草を抜き取った。
「私、翔太郎さんが好きです」
「……え」
さすがに、意味が分からなかった。翔太郎は一旦視線を外し、そしてきちんと誠を見つめ返した。
「何で?」
「分かりません」
「え」
「でも、間違いありません。私翔太郎さんが好きなんだと思います」
「……そう。……え何で?」
誠は泣きながら笑った。
自分でも分からないのだ。どうして自分がこんなにもこの男が好きなのか。言葉で伝えられる明確な理由が出て来ない。しかし、こうも思うのだ。
「理由は、後でそれっぽいの考えます。だけど、今言っておかないと私後悔すると思うんです。翔太郎さんが好きだということ。今言っておかないと後悔すると思うから」
翔太郎は再び視線を外し、分かったような顔でウンウンと何度か頷いて見せた。そして手に持っていた火のついていない煙草を唇の端に挟むと、閃いたような表情で、自分と誠の間で指先を行ったり来たりさせた。
「俺ら前に会ったことあるっけ?」
誠は目を丸くして、数秒の後、
「……まあ、はい」
と答えた。
「うわー」
翔太郎は眉間を曇らせ、畳の上で視線を左右に走らせた。「あー……まあ、なんつーか、誠はホラ、大人っぽいから、なんかそういうあれで、俺も、結構酔ってたりしたんかな?分かんねえけど」
「……はい?」
「え?」
「え、覚えてませんか?」
コンビニバイト時代、ほぼ毎日会っていたのに。
翔太郎は目を開いて大きく息を吸い込んだ。
―――いやー、まー、そうだよね。そりゃモテるんだろうしなぁ、この人は。あんまりからかったりしたら悪いよね。だって、私が勝手に我が儘言ってるだけなんだから。
「噓です。前に会ったことはありません。カオリさんと一緒に、メリオスボールに行った時が初めてです」
「だ!」
だよな、と翔太郎は溜め込んだ息を吐き出した。翔太郎にしてみれば、まさか自分が酔った勢いで未成年に手を出したのか、と生きた心地がしなかったのだ。そういう所も誠にとっては、翔太郎を人として信頼できる一つの要因となっていった。
だがしかし、あの時無邪気にコンビのレジで翔太郎を待っていた、あの頃の自分の何でもない時間を自らなかったことにしてしまったことが、誠にとってはその後何年も引き摺る程の後悔を生んだ。
「所でさ」
「はい」
「腹減らない?」
「……は」
「お前あれからちゃんと飯食ってるか?」
「……」
「だってさぁ、何でか知らないけどあん時俺医者に睨まれたんだ……ぜ、何で泣いてんの?」
「……泣いてません」
「何だよ。こんな時間だけど、開いてる店何軒か知ってるから、今から行く?何か食いたいもんある?」
「……」
「……んだよ」
「ごめんなさい」
「怒ってるわけじゃねえよ。食いたいもん聞いただけで泣かれるって俺どうしたらいいんだよ」
「……何でも」
「……」
「何でも食べます。翔太郎さんと一緒なら私何でも食べます」
「お前」
翔太郎は笑った。自然と笑みがこぼれた。美央とはまた違った意味で、誠は自分の理解を越える女だった。それは翔太郎にとってはある意味、幸せな出会いでもあったのだ。
翔太郎にとって誠は、見かけ通りの傷つきやすい弱り切った人間ではなかった。気が付けばいつも泣いている、線の細い十代の少女には違いない。だがそれでも、泣きながらでも心の芯がいつまでも燃え続けている……そんな強さを感じさせる女性だった。
「お前、面白いなぁ」
「お、おもォ……?」
「あはははは!いい顔してるわ!」
―――何でだろうなぁ。
誠は涙に顔をぐしゃぐしゃにしながら、それでも最後には笑ってしまっていた。
―――全然分からない。全然分かんないのに、何でこんなに幸せなんだよ私。もうわけ分かんない。お腹なんて全然減ってないし、痛いくらいに胸が苦しいし。お父さん。お母さん。こういう時私どうしたらいいんだろうね? 私、どうしたいんだろうね? 私、幸せがこういうヘンテコな形をしてるんだってことに、今初めて気が付いたんだ。
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