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翼のない天使.1
その男は、小山のような体を右へ左へのた打ち回らせていた。女性看護師がオロオロしながら制止する声など聞こえてもない様子で、頑丈なベッドがギシギシと悲鳴をあげる程だった。
名張が入院したという病院を探しだすのにそう苦労はしなかった。翔太郎の手でこてんぱんにのされた名張は、その後メリオスボールの従業員によって通報され、そのまま救急搬送されていったからだ。
「僕らあの後警察に事情聞かれてさんざんだったんですから、全くの無関係だってのに」
とクラブの従業員たちは口々にブーたれた。竜二は内心、
「俺のせいじゃねえし」
とは思っていた。だがそれを言った所で仕方がないのは分かっていたし、名張の居場所を聞き出すには下手に出るほかなかった。「悪い悪い。それでさ、あの後なんだけど……」
竜二はまだ若そうな看護師がどう対処すべきか迷っているその背後から現れ、
「ここはもういいから」
と声をかけた。「こいつ昔からオーバーなんだよ。別にこれくらい本当は痛くも痒くもねーの。ただ構って欲しいだけだから、お尻触られる前にとっとと戻んな」
「え」
職業倫理的にはどうかと思うが、確かにこんな傷だらけの男に体をさらわれるのはごめんだ。「……何かあったら、ボタン押してください」
そう言い残して看護師はそそくさと病室を出ていった。実際、名張の容態は竜二が言う程軽くなかった。皮膚表面の裂傷はまだしも、全身打撲による遅れてきた鈍痛が、昼夜問わず骨を軋ませるのだ。
「昔っから手加減知らねえ男だかんなー」
言いながら竜二が手近にあった椅子を引き寄せ、名張の側に座った。「おい、じっとしろよ名張」
「……」
名張はとっくに竜二の存在に気が付いていた。だが声をかけられ睨み返しはしたものの、身体が痛すぎて掴みかかる余裕がなかった。
「頑丈なバーカウンターがぶっ壊れるくらい頭ら突っ込んだもんな。痛えのはしゃーねえよ。けどお前、タフだよなー」
竜二の口調に嫌味はなかった。池脇竜二とはこういう男だった。学生時代からの縁とはいっても、名張は途中で転向し、その後ヤクザとなった。普段から連絡を取るような関係では当然ないわけで、メリオスボールで再会したのがいつぶりなのかも覚えていない。だがそういった距離感や時間の壁など、竜二には全く関係なかった。自分は名張を知っているし、こいつも自分たちを覚えているだろう。だったら他人行儀はなしだと、特別なことでもなんでもなく、そういう考え方をする男なのだ。
「でさ、あん時お前言ってたもんなー、絶対許さないぞーっつって、でも悪いけど俺らあれ聞いて笑っちまって。だって他にいねえもん、がっつり血塗れんなるまで喧嘩してそれでもまだ向かってくるようなの、中学ん時に出会ったナベとかマーくらいのもんでさあ。でもお前その後転向すっからさ、何だよぅとかって」
「……何しに来やがった」
竜二は口を閉じ、自分ではなく壁を睨んでいる名張を見据えた。
「お前、その冷や汗みたいなのは禁断症状か?」
「……やってねえよ」
「そうなのか?」
「今は」
「そっか」
疼痛による脂汗なのか、薬物による後遺症なのか。名張の顔面は水でも被ったみたいにぐっしょりと濡れていた。病院にいる以上、当然検査されて警察にマークされていると思ったが、こうして見舞いに来る分には何の妨げもなかった。今はやってない、という名張の言葉も、ひょっとすると噓ではないのかもしれない。
「ちょっと、お前と話がしたくてよ」
「帰れ。俺を誰だと思ってる」
「藤和会のヤクザ屋さんだろ?」
「……」
「何だよ、違うのか?」
「……」
「思い出話もいいけどよ、ちょっとまあ、本当言えばお前に聞いておきたいことがあってな」
「帰れ」
名張はそっけなく答え、シーツを被って完全に竜二に背を向けてしまった。ぐう、と痛みに耐えるうめき声をあげながら。だが、
「……お前らの話、聞いてるぞ」
帰れと言いつつ話し始めたのは名張の方だった。竜二は意外に思いながらも、
「何をだよ」
と聞き返した。
「音楽、やってるそうだな」
「ああ、俺か?まあ、今はちょっと休んでるけどな」
「神波もだろ」
「おお、やっぱ名前覚えててくれてんだな」
「善明は板金屋」
「……バイトだけど?」
言いながら竜二は、うすら寒さを感じ始めていた。久しぶりに再会したヤクザ稼業の男から語られる自分たちの現状は、むろん後ろめたさなどないが、知られて気分のいいものではなかった。何故名張がそんなことまで知っているのか。いや、何故調べたのか。
「伊澄の野郎は、相変わらずわけが分かんねえ。あいつは喧嘩で飯食ってんのか?」
竜二は鼻で笑い、
「何だよ、地下格闘技でもやってんのかって?」
と返した。「それはそれでお似合いすぎて逆に怖えな。で?だから何だよ」
「……伊澄に兄弟はいるか?」
「あ?」
名張の話は予想だにしない方向へ傾いた。竜二は一瞬答えに詰まり、「いや、いねえ」と正直に打ち明けた。
「……そうか」
「何の話だ、そりゃあ」
「よく似た男を知ってる」
「翔太郎にか?いや、まあ、あいつに兄弟なんていねえから、だとしても他人の空似だろうな」
「気になって俺も調べた。確かにそうらしいな」
「だから何だよ」
「お前の話ってのは何だ。何を聞きに来た」
はぐらかされたのは癪だったが、それでもこちらの聞きたいことを聞けるのだからと、竜二は逸る気持ちをこらえた。
「あの押鐘って女とはどういう関係だ?」
「……」
「まだ中学生だろ。どこで知り合った」
しかし名張は答えない。
「あの女が、今街で幅きかせてる自警団気取りの愚連隊とつるんでるってのも、お前なら当然知ってるよな。でもって、その愚連隊が俺の後輩を病院送りにしたことも」
名張は寝返りを打つようにして体を起こし、竜二を睨みつけた。
「……何だよ」
「お前、ハイウィンドと構えるつもりか?」
「阿保か。ガキの遊びじゃねえんだからよ」
「やめとけ」
「お前が言うな、説得力なさ過ぎなんだよ」
「池脇」
「だから何だよ」
「伊澄によく似てるって男、そいつがハイウィンドのバックにいる」
「何だそりゃ。似てる似てるってそればっかり。いくら見た目が似ていようが、そいつが翔太郎とは別人なら何の問題もねえよ。それよりバックって何だよ。愚連隊の後ろにヤクザがついてんのか?」
「……俺にもよく分かんねえ」
「はあ?」
「馬鹿だから、調べたけどよく分からなかったんだ。あいつが何者で、なんであんなことしたのか」
「あんなこと?」
竜二が問うと、名張はややバツが悪そうな顔で下を向き、
「……俺、破門になったんだよ」
と答えた。先程竜二に「藤和会だろ」と聞かれて即答できなかったのは、それが原因であるらしかった。
「何で」
「嵌められた」
「……その、翔太郎に似てるって男にか?」
「俺はもう数年前からシャブはやってねえ。取り締まりが厳しくなってから藤和も扱いをやめてて、とっくに別のシノギに乗り換えてる。それなのに上の人間に、俺が一人で薬を扱ってるって噂が立って。もともとがそうだから上も簡単に噂信じちまって」
「証拠もなしにか?」
「俺の家から、身に覚えのねえシャブがわんさと出てきたんだ。それで」
「嵌められた……のか」
「最初は訳が分かんなかった。行く当てがなくなって腐ってたところへあの男から声がかかって、どうせ疑われてんなら本当に扱ってみればいいじゃないかって。まさかそいつが仕組んだなんて思いもせずに俺は」
「待てよ。それって、ハイウィンドのベイロンて奴が街に流してた薬物と同じなのか?」
「多分」
だが実際には、名張自身は売人のような真似事には手を染めていないという。ベイロンが翔太郎に潰される前までは、用心棒として揉め事の現場に呼ばれるだけだった。だがそれでも、藤和会にいた時よりも稼ぎが良かったという。その後一月程経過した頃、自分を見限った筈の藤和会から連絡が入った。
「山規の残党に手を貸してやってほしい。組にとっても旨味のある話だから、手柄次第じゃ絶縁を取り消してやってもいい、こりゃ破格の対応だぞって……そう言われて」
だが名張はこの時まだ、自分を信じてくれなかった藤和会幹部に不信感を募らせていた。稼ぎの面でも待遇面でも断然今の方がいい、ただ、自分に声をかけてきたその男の得体の知れなさが理解不能で、怖かった。
「何者なんだそいつ。てか、何でその男がお前を嵌めたって分かったんだ?」
竜二の問いに、名張はさらに言いにくそうに顔を曇らせた。
「……あいつだよ」
「誰だ」
「押鐘が教えてくれた」
「ああ!?何でそこであの女の名前が出て来る!」
「ベイロンてのがよく分かんねえ倒され方して、突然街への供給がストップした。やったのが伊澄だとは思わなかったが、ベイロンが割と若い年代にも薬を売りさばいていたから、どっかの跳ね返りに目を付けられて襲われた。だったらそいつをとっつ構えて、薬で落として……そんな絵図を描いて立て直しを図ろうとしてたんだ。したらそのタイミングで押鐘が現れた」
「ま、待てよ」
じゃあ、あの晩三井が話した内容は全部本当のことだったのか。本当に若干十五歳の少女が、薬の売人として名乗りを上げたのか。
「あの女が何をどうやって俺たちの居場所を嗅ぎつけたのか分かんねえ。だけどあの女が俺に向かって、あんたは騙されてるって教えてくれたんだ。だから」
「礼として、あいつの願いを聞いてやった……そういうわけか」
だが、当然理解出来ないことはまだあった。
何故押鐘美央が名張たちを探し当てることが出来たのか、である。三井の話ではなんとかというクラブが拠点だったらしいが、客として偶然訪れただけでは名張らの正体には気づくまい。そもそも名張や、その翔太郎に似ているという男が違法薬物の売人グループであると事前に知っていなければ、ベイロンの後釜に座るなどといった突拍子もない話には持っていきようがないのだ。
「何者なんだよ、あの女」
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