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翼のない天使.2
「いつまでそーやってんの?」
突如声をかけられ、オリヴィアは腰を抜かして驚いた。
手島と新永が運び込まれた病院の、集中治療室前の廊下である。
「あ……あんた、誰よ」
手島は手術後、割と早い段階で処置室から出たが、高齢であるため現在別室にて経過観察中である。だが新永はまだ処置室から出てこられていない。運び込まれてすぐ、急性の硬膜下血腫による脳の圧迫をとるための手術が行われた。その後も脳に浮腫が見られたため、頭蓋骨を元通りに戻すまでに時間がかかった、と医者から説明を受けた。生きてはいるが、その後意識が戻るかも、今後どのような後遺症が残るかも、現段階では何も正確なことは答えられないという。
「ニイちゃんは大丈夫だよ、きっとね」
「あんた」
廊下の隅で、壁にもたれて座り込んでいたオリヴィアの隣に、コンビニ袋を手にぶら下げた押鐘美央が腰を下ろした。
「これ食べる?ファミマの新作」
「あんた、マンタの知り合い?」
「マンタ!」
美央は笑い、コンビニ袋の中からカップに入ったプリンを取り出した。「これどーぞ。そいや聞いたことあるなぁ。ニイちゃんのこと世界最大のイトマキエイみたいに呼んでるオカマがいるって」
確かにイトマキエイの別名はマンタだが、新永の下の名も万太だから間違いでもあだ名でもない。
「何よあんた、私に嫉妬してんの?」
「ふぁあ」
美央は吐き出すように笑って、やめてよ、と顔をしかめた。「私があんたに嫉妬?冗談でしょ。全米に笑われちゃう」
「あんた、綺麗な顔してるわね」
「そうでしょ。当然知ってますから」
美央は自分もシュークリームを手に取り、どっちがいい?とオリヴィアに見せた。
「……プリンがいいわ」
「そ」
「あんた、セキタンの友だち?」
「なんで?」
「なんか、それらしい話を聞いたことある気がする。年齢も同じくらいでしょ?格好つけて年上ぶってるけど、目がガキだもん」
「うっはあ!」
美央は吹き出し、弾みで手に持ったシュークリームの封が勢いよく開いた。「おもろ。……んで?セキタンは私のことなんて言ってた?」
「さあ、別に興味はなさそうだったわよ」
「ふふ、そっか。あんた、もしかしてオリヴィア?」
「そうよ、私も有名になったものね」
「ニイちゃんから聞いてるってだけの話。なんでオリヴィアなの?」
「何でってそりゃ、見りゃ分かるじゃない」
美央は真顔で隣のオリヴィアを見つめ、首を傾げた。
「分かんない。……割れ顎?」
「お前なあ」
思わず飛び出たオリヴィアの低く男らしい声に、美央は危うくシュークリームを握りつぶす所だった。
「織部俊尚。それが私の名前。世を忍ぶ仮の名前だけどね」
「男らしい名前してるじゃない」
「そうでしょ。でもね、これあんたに言っても分かんないけど、仲間内に私に似た名前の女の人がいてね、その人がまあなんとも筆舌に尽くしがたい魅力的な人なわけ。ね、で、ややこしいからお前が改名しろってイジられて。じゃあもう、私はオリヴィアで行くしかないな、みたいな。……分かんない?」
「分かんない」
「でしょーね」
美央はシュークリームにかぶりつきながら、新永のいる処置室の扉を見つめた。その瞳が僅かに震えているのが分かって、オリヴィアもまた胸を痛めた。
「心配しないでいいわよ」
と、オリヴィアは言う。「私がマンタを好きなのは……そうね、同じ時代を共に駆け抜ける同志として、みたいな感じかしらね。それはでも、単なる友達とも違うのよ」
「無理すんなってオカマ。別に同性愛をどうこう言う気はないから」
「腹立つガキね!」
「私相手が誰だろうと負ける気しないから」
「……」
勝気な発言を口にした美央の顔はしかし、冷静で、あくまでも普段通りだった。オリヴィアに対する敵愾心などおくびにも出さず、心から自分の勝ちを信じて疑わない、絶対の自信に満ちていた。オリヴィアは開いた口が塞がらず、頭を振ってプリンの蓋を開けた。
「同志って何のこと?」
「……え、ああ、夢よ」
美央はオリヴィアの横顔を見据え、夢、と声に出した。
「そうよ、まだ私も半人前だけど、いつか自分の店を出すっていう夢があるの。中華料理屋よ、現在修行中」
「ああ、もしかしてセキタンの実家の近所にある美味しいご飯屋さんって、あんたの店?」
「私の店じゃないわ。でもそうよ、セキタンとの出会いはそのお店」
「成程ねえ」
「マンタもほら、知ってると思うけど、夢があるじゃない?」
「……農園」
「そう、やっぱり知ってたわね。珈琲豆の農場を持つことがマンタの夢。マンタスペシャルを作るのよ。だから」
オリヴィアは処置室の扉を見上げ、プリンを口一杯に頬張った。
「こんな所で終わるわけにはいかないのよ、マンタは」
「大丈夫よ」
言って、美央は立ち上がった。空になったシュークリームの袋をくしゃくしゃにして、コンビニ袋に投げ入れる。「ニイちゃんは大丈夫。私がなんとかする」
「……何言ってんの?あんたみたいなガキが何をどうするってのよ」
オリヴィアはこの時、得体の知れない不安を感じ取っていた。まだ少女にしか見えないこの女の顔に浮かぶ、揺るがしがたい自信は一体どこから来るものなのか。それを考えると、どうにも心がざわついて仕方なかった。危険だ、とさえ思った。この女は危うい。理由は分からない、でも……。
「あんた、名前何て言うの?」
「私?なんだ、セキタン、私の名前さえ出してないのか」
「最近あの子、ちょっと様子がおかしかったからね。それでなくとも自分のこと話したがらないし。あんたが唯一よ、友達としてその存在が話題に上ったのは」
「そ。ならいいか」
「だから」
「美央」
「……みお」
「押鐘美央」
「おしがね……」
「織部さん」
美央の目がオリヴィアを見つめた。オリヴィアはごくりと喉を鳴らした。
「……何よ」
美央はオリヴィアを見つめたまま、左足を後ろへ下げた。
「元気出しなよ。あんたがそんなんじゃ、全米もニイちゃんも泣いちゃうぞ?」
そして、右足をさらに後ろへと下げる。
「あんた」
「夢、頑張ってね。私、そういう話好きよ」
「み、美央、待って。もう少し話しましょ」
「ううん。もう十分」
「美央、ねえ。ねえったら!」
「先に行くね。私にも、誰にも譲れない夢があるから」
「教えて!教えてよ!美央の夢を私にも聞かせて!」
オリヴィアの両目から涙が溢れ、勢いよく流れだした。美央はそんなオリヴィアに優しく微笑み返し、右手を挙げて「ばいばい」と言った。
「美央!」
新永が意識を取り戻したのは、その日の夜遅くだった。
何年かぶりに、勢いよく転んでアスファルトに手をついた。
夕暮、どうにも空腹に耐えかねて翔太郎の部屋を出た誠は、着替えを取りに戻るついでに、勝手知ったる古巣のコンビニへと出向いた。翔太郎と初めて出会った運命の場所である。
―――なんと今私、その男の部屋に転がり込んでるってー話じゃない?
「くうー、全米がカーニバルだぜえ」
誠はお道化たポーズで自動扉の前に立ち、店内から出て来た小学生に笑われた。買い物を済ませて店を出て、気乗りはしないが実家に戻るかと方向転換した所で恐ろしいものを見た。
「あれは」
はっきりとは憶えていない。だが三十メートル程向こうから、『キュー』で良く見た顔の男が歩いて来る。エンジンの側近で、幹部とか呼ばれている男だ。確かジョッキだかチョッキだか、そんなあだ名で呼ばれていた。だが恐ろしいのはその後ろ、ジョッキとあともう二人、これも見た顔の男たちが遅れて歩いて来る。
「エンジン……」
その中に猿田仁の顔があった。
まさか、という思いに誠の全身を震えが襲った。『リッチモンド』襲撃から丸二日も経っていない。警察が犯人を捜索中にも関わらず、まだ日のあるうちからあんなに堂々と街中を歩けるものなのか。しかも個別にこそこそと、ではない。主犯格である取り巻きをつれてぞろぞろと、である。
誠は反射的に踵を返し、今出たばかりのコンビニ内へ戻ろうとして勢いよくすっ転んだ。だが運よく開いた自動ドアから転げるように店内へ入り、カップ麺コーナーの棚へ回り込んで身を隠した。元同僚の男性バイトがレジの中から誠を見て首を傾げている。
幸いにもエンジンらに気付かれた様子はなかった。だが運悪く彼らはコンビニ前に置かれた煙草の吸殻入れに眼を止め、その場で立ち止まった。窓ガラスや商品棚を挟んでいる為彼らの会話はほとんど聞き取れないが、時折聞こえてくる下卑た笑い声がひたすら恐怖だった。あの連中が笑いながら新永を半殺しにしたのだ。あの優しい手島マスターをいたぶったのだ。あの連中が。私にスカジャンを譲ってくれたあの男が。
「めちゃめちゃいい女だぞ、まじで、びっくりするから」
どういった会話の流れかは分からない。しかしエンジンらしき男が、ひと際声を高くしてそう言ったのが誠の耳に聞こえて来た。
「お前らまじでびっくりするから。いい女過ぎて勃たんかもよ!」
そんなわけあるか、という爆発に似た笑い声。その後ややあってエンジンらがコンビニ前から歩き去った。最後まで誠は彼らに見つかることはなかったが、ホッと胸を撫で下ろす気分ではなくなっていた。
「嫌な予感しかしない」
誠は通路にしゃがんだまま、自分がどうすべきなのかを考えた。奴らはきっとまたよからぬことを企んでいるに違いない。もしも、翔太郎が言ったようにエンジンらの襲撃理由に彼らが関係しているなら、また誰か知っている人間が襲われるかもしれない。
「いい女。いい女って誰だ……いい女、い」
誠は立ち上がり、店の表を振り返った。「カオリさん?」
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