獣たちのバラッド.3

1/1
前へ
/65ページ
次へ

獣たちのバラッド.3

 街の様子がいつもと違うことには、すぐに気が付いた。  タクシードライバーのミハイル・アリストフはその夜、『メリオスボール』から『合図』へと続く往来に集まり始めた見かけない連中を横目に見ながゆっくりと車を走らせた後、一度会社へ車を戻しに行った。そしてすぐ様とんぼ返りしたが、案の定マスクやスカーフで顔を覆った連中に通行を邪魔され、 「Что?」  日本語が喋れない振りをしてその場をやり過ごした。ほんの十分前まで十五人程度だった見かけない連中は、戻って来た時には早くも倍の数に膨れあがっていた。  ―――この様子じゃあ、ショータロさんたちは中にいないみたいだ。  ミハイルは当初、『合図』が見える場所に立って電話をかけ、そのまましばらくは静観するつもりでいた。カオリの様子を伺う為に一人で突っ込むにしては数が多い。目抜き通りではないがそこそこ通行人の多い場所ではある。連中が何を企んでいるにせよ、そこまで派手なことにはならないろう、とミハイルは踏んでいたのだ。  ―――ここはロシアじゃない。でも奴ら、あんなに集まって何をやらかすつもりだろう?  一応、電話で仲間を呼んでおいた。十分もすれば現れるだろう。さすがに三十人も集まりはしないが、日本人相手なら五人もいれば事足りる。相手方に翔太郎たちみたいな怪物が潜んでいなければ、の話だが。  だが、そんなミハイルの計算は一瞬にして狂わされた。『メリオス』と『合図』のある通りを挟んだ向かい側にあるコンビニから、見覚えのある一人の少女が飛び出して行くのが見えたのだ。 「ты шутишь(噓だろ)……」  つい先日、翔太郎たちと一緒にタクシーに乗せたあの女の子だった。  誠は雑誌コーナーに立って、向かい側の路地を茫然と眺めた。決して寒いわけではないのに、ただ立っているだけで全身を震えが襲ってくる。この時誠が感じていたのは絶望だった。やはりエンジンたちはカオリのいる『合図』へとやって来た。それまでは、ひょっとしたら『メリオスボール』で遊ぶつもりなのかもしれない、という淡い期待を抱いていた。だが、どこからともなくわらわらと沸いて来る物騒な連中が数を増やしていくに従い、誠の胸中は黒く塗りつぶされていった。  誠の頭の中で、翔太郎の声が甦る。 『これでもしあいつが死んだらさ。あいつが抱えた夢はどこへ行くんだろうな。……よくある話だと思うよ、こんなの。分かってるよ、皆そうやって、色んな方向に転げながら生きてることくらい。ニイが特別だなんて俺は思っちゃいない。だけどさ、だけどニイにとってはただそれだけが……』  誠は怖くなって頭を振った。  ―――もしここでカオリさんにまで何かあったらどうなる。皆どうなる?翔太郎さんは……アキラさんは? 『手島のじいさん死んだら、お前ら全員殺すからな』  善明アキラのあの気魄、剥き出しの殺気を間近で感じた誠にとって、彼の言葉は紛れもなく本心に違いなかった。そしてその対象は山規組の三井だけではない。当然、新永や手島を襲ったハイウィンドにもアキラの殺意は向いているのだ。そんな彼の恋人であるカオリが怪我でもさせられようものなら。  誠が本当に怖かったのは、何もアキラや翔太郎の怒りではなかった。恐れているのは、彼らの悲しみである。友達や恋人を傷つけられたことで、当たり前の顔で日常の外側へと突っ走っていく彼らの明日の行方である。両親を殺され、明日への希望を無くしてしまった自分を側に置いてくれた翔太郎の、あの夜の横顔を思い出した時、誠は言葉で表現出来ない感覚に突き動かされたのだ。  そして気付いた時には、誠はコンビニの外へと走り出していた。通りを横切り、『合図』へ向かって一目散に走った。入り口と言わず往来のいたる所にハイウィンドの連中が屯していた。だが騒ぎを起こしているわけではない。警察はあてに出来ない。誠は『合図』目掛けて走った。むろん、 「おい!」  すぐに止められた。フードを被った黒マスクの男だった。「こっから先は今は……お、え、お前関か?」  男は誠の両肩を掴んで止めるなり、マスクを下げて自分の顔を見せた。 「俺だよ俺」  知った顔だった。「こんな所で何やってんだよ」 「どいて!行かせて!」 「だから今は駄目だって。今中でエンジンたちが……」  男は誠とそう年の変わらぬ、十代の少年だった。不良に憧れ、新たな街の顔役となったエンジンに憧れてチーム入りした高校生だった。だが、誠がその少年の名前を思い出すより早く、少年の体が右から左へ猛スピードで吹っ飛んだ。 「не трогай」  ―――触るな。  その時誠の目の前に立っていたのは、あの綺麗な目をした、ロシア人のタクシー運転手だった。 「イッテ、ハヤク」  ミハイルは誠に向かって言うと、「カカッテコイヨー」、あえて大声を出しながらその場から逃げた。仲間を吹っ飛ばされたハイウィンドの面々が奇声を上げてミハイルを追いかける。  誠はその隙をついて『合図』へ続く階段を駆け上がった。異変に気付いた幾人かが誠に追い縋ろうとしたが、誠の背中に迫る数本の腕めがけて植木鉢が飛んで来た。ミハイルが路肩のそれを拾って投げたのだ。さらに気勢を会上げてミハイルを追うハイウィンドの若者たち。  外の騒ぎを聞きつけ、店の玄関が開いた。中から顔を出したのは額に白いバンダナを巻いたボーノだった。誠は反射的にボーノの顔面に体当たりし、一緒に倒れ込みながら店内へと入った。 「……」  その時、誠は見たのだ。冷たいフロアに組み敷かれている、血だらけのカオリの裸体を。「うう、ううああ、ああああああッ!」  誠はズボンのポケットに隠し持っていたカッターナイフを握り、エンジンの背中目掛けて突っ込んだ。だが寸での所でジョッキの蹴りが誠の腕を跳ね上げた。誠は勢いよくバーカウンターのスツールへ倒れ込んだ。  エンジンがやおら立ち上がり、降ろしかけていたパンツを持ち上げた。 「お前関か?何やってんだよここで」 「……エンジン、やめ、やめ、て」  切れ切れに言う誠を見据えて、エンジンは大きな溜息を吐き出した。 「せっかく楽しい所だったのによ。何でお前が現れんだよ」  いってー、と怒りを滲ませながらボーノが起き上がり、入り口の扉を閉めて施錠した。 「順番交代」  とエンジンは言う。「まずは関、お前からだな。脱げ」 「エンジン……?」 「脱げ。関。裸になれ」 「な、何言ってんのエンジン」  満足に立っていられない程誠の足は震え、言う事をきかなかった。エンジンの足元に倒れているカオリは仰向けのままピクリとも動かない。破かれ引きずり下ろされた彼女の衣服が無惨な状態で手足に引っ掛かっている、その様を見るだけで誠の心臓は恐怖に膨れ上がった。 「だから、脱げって言ってるだろ」 「……やめてよ」  これまでもエンジンを怖いと思ったことはあった。だがその怖さが身内から見る贔屓目のであり、何なら彼の側にいる間は誠や美央の有利に働くことも多かった。だが今は違う。自らの意志で離れたとは言え、外側から見るエンジンの怖さはこれまで感じた種類のものとは明らかに異質だった。 「お前、俺が売ってやったスカジャンどうしたんだよ」  ズボンのボタンに手をかけたまま、エンジンが問う。 「どうって」  誠は左手をスツールに置いてなんとか体を支えた。側にいるボーノ、エンジンの隣でカオリを見下ろしているジョッキの存在もまた怖かった。いつ彼らが牙を剥き出して襲いかかってくるか分からない。 「はあ」  と、わざとらしい声でエンジンは溜息をついた。「そういう奴だよな、お前は」 「……そういうって」 「俺は本当はお前になんてあのスカジャンくれてやりたくなかったんだよ」 「……え」 「だけど唯がどうしてもお前にって言うから」 「ゆ」  ―――唯?それって……キョーちゃん。 「お前の親が突然おっ死んで、落ち込んでるお前を見て唯が俺に言うんだよ。あの子を見てるとまるで自分まで可哀想になって来るって。だからあんたのスカジャンであの子を守ってあげてって。そしたらきっと、自分も救われる気がするから……あいつはそう言ってた」  誠は崩れ落ちた。  膝の皿が割れるくらいの勢いでコンクリの床に両膝を強打した。だが、痛みなどひとつも感じなかった。 「お前はそんな唯の気持ちを踏みにじったんだぞ。別に毎日着ろなんて言わねえさ。でもお前、アレが今どこにあるのかも知らねえんだろ?」 「み、美央が……」 「俺はお前にくれてやったんだろうがッ!」  どうでも良かった。  エンジンの怒りや自尊心などどうでも良かった。ただ、キョーちゃんの優しさをそうとは知らずに裏切っていた自分の浅はかさが許せなかった。でも、どうしたら良かったんだろう。どうすれば自分に噓をつかず、そしてキョーちゃんの優しさに答えることが出来たんだろう。どうすれば支え合う姉弟は死なずに済んだのか。  ―――私が悪かったの?私があのスカジャンを美央にあげちゃったから? 「唯を殺したのはお前だよ、関」
/65ページ

最初のコメントを投稿しよう!

200人が本棚に入れています
本棚に追加