聖母

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聖母

 ハイウィンドのナンバー4、ジョッキを見つけたとの報せを受けたのは、カオリが襲われた日の翌日だった。連絡を寄越したのはミハイルで、竜二は電話の向こう側でがなりたてている幾人かのロシア人の声を訊いた。 「助かったよミハイル、今どこだ」  竜二はこの時、エンジンたちのアジトである『キュー』の受付カウンターに座っていた。足元にはキューに詰めていた従業員たちが横たわり、ちょっとした騒ぎになっていた。  ―――これ以上時間をかければ警察が来る。  表向きはカラオケボックスとして営業している店でも、ハイウィンド側としては出来れば警察の介入を避けたい所だろう。だが、竜二は目立ち過ぎた。そうなれば当然、利用客が通報してしまう。 「竜二さんはどこ?」  聞かれ、竜二はカウンターから降りて店の外へ出た。 「キューって名前のカラオケボックスだ。今出たよ」 「そう。こっちはジョッキって呼ばれてるスーツ着た男を捕まえたんだけどね。でも、逃げられちゃったよ」 「……場所は?」 「メリオスだよ。でも今はいないよ」 「大成も一緒か?」 「いないよ?なんで?」 「とりあえずそっち戻るわ」 「うん」  竜二が『メリオスボール』の前に到着した時、営業前の閑散とした表通りでミハイルたちが待っていた。 「ごめん竜二さん」 「いいって。で、どっち行った?自分たちの街へ戻る様子だったか?」 「そこまでは……」  竜二はミハイルを深く追求しなかった。腕っぷしよりも、何より気性の荒さが問題視されて来た若きロシア人だ。カオリの庇護のもとこの街で更生を果たしたとはいえ、性格が丸くなったわけではない。恩人であるカオリが襲われ、血眼で探し回った結果、翌朝には犯人の一人を見つけるまでに至ったのだ。それを取り逃がしたとなれば、誰よりもミハイル自身が悔しがっているだろう……それは竜二にも当然のこととして理解出来た。  そこへ、竜二の携帯電話に着信が入った。相手は行動を別にしていた大成だった。 「どうした」  出ると、 「竜二」  酷く深刻な声色が竜二の耳に飛び込んで来た。 「……何だよ」 「ニイが目ェ覚ましたって」  んだよ、と思わず竜二は叫んだ。暗い声だしやがって! 「今んとこ異常は見られないそうだ。まだ術後間もないから、楽観視は出来ないけどって」 「そうか」 「でもな竜二、悪い知らせもあるんだ」 「……」  押し黙った竜二の横顔を、ミハイルの心配そうな目が見つめる。 「何、何だよ早く言えよ」 「今朝早く、メバルが襲われた」 「……はあ?」 「正確な時間か分からないし目撃者もいない。もしかしたら夜中の間かもしれないって。朝になって、外の喫煙所で頭から血流してぶっ倒れてるとこ発見されたらしい。一応聞くけど……お前じゃないよな?」 「なわけあるかぁ!」 「息はあるが、やばいらしいぞ」 「まじかよ。エンジンか!?」 「分からん。何が何だか。とりあえず俺は……」  大成はこのまま新永の病院へは向かわず、エンジンたちを探し続けるという話だった。新永の側にはオリヴィアがついているから心配ない、と言う。 「大成」 「あ?」 「翔太郎がどこに行ったか聞いたか?」 「いや、聞いてない」 「……実はな」  竜二はこの時になってようやく、名張から仕入れた情報を大成にも話して聞かせた。名張やベイロン、押鐘美央を巻き込み、薬物売買を裏で糸引く謎の男について、である。ひょっとしたら翔太郎は、その男を探して大坂へ行くつもりなのかもしれない……。 「あいつならありえると思う。けどそれって、何かしら当てがあっての話だろ。その正体不明野郎がどこにいるか見当ついてんのか?」 「とりあえずは大阪ってことだけは」 「そ、それだけ?」 「あいつも人と会ってたっぽいから、別ルートで情報仕入れたのかもしれねえ。正体不明マンの動きを聞く限りそいつもヤクザかヤクザ上りだろうから、もしかしたら翔太郎の奴、藤和会に突っ込むかもな」 「おいおいおいおい」 「カオリが襲われた直後に意味もなく消えちまうような男じゃねえだろ?目的があんだよきっと」 「それはそうだけど、一人でヤクザに突っ込むか普通」 「あいつ普通じゃねえし」 「にしたってそれはないだろう?」 「冗談だよ」 「笑えないんだよ!」 「大成、悪いけどエンジンたちを探しながらでいいから、連中に取っ捕まってる藤和会の男についても調べてくんねえか」 「桐島って奴か?」 「ああ、そいつからも話を聞きたい」 「殺されてなけりゃいいな。ベイロンたちが攫ってどこかで監禁してるとして、見つけたら襲っていいんだな?」 「いや、その前に連絡くれ、突っ走るなよ」 「分かった。お前はどうする」 「三井に会って来る。ヤクザの話はヤクザに聞くのが手っ取り早い。テツが連絡先を知ってるそうだ」 「分かった。テツの手が空いてそうならこっちに回してくれ。人探しはあいつの方が上手い」 「言っとく」  電話を終えた時、気が付くと竜二の側からミハイルの姿が消えていた。不思議に思い、路上で煙草をふかしているロシア人に話しかけると、 「連中を探しに行ったよ」  という簡潔な答えが返って来た。  ジョッキは震えていた。  声は小さいながら、耳元で早口に捲し立てるロシア人の意味不明な言葉が怖かったのだ。雨上がり、まだ路地裏は濡れている。それなのにジョッキは両腕を後ろで縛り上げられ、両膝を着かされてひどく寒かった。  突如現れた謎のロシア人集団に囲まれ、抵抗する暇もなく強か殴る蹴るの暴行を受け、そのまま路地裏に引きずり込まれた。全身が痛み、そして凍えるくらいに冷たかった。……風邪引いちまうじゃねえか。そんなどうでもいい心配が頭の隅を掠める。だが、本当の胸の内は違った。  ――― こいつら何者なんだ?  あの時、外の騒ぎを聞きつけたジョッキはエンジンやボーノと別々の方角に逃げた。何故自分だけこうもあっさりと捕まったのかは分からないが、きっとエンジンたちが助けに来る筈だ。それまで耐えればいい。そう自分に言い聞かせようとした。だが、感じたことのない種類の不安がどうにも拭えなかった。ここから先の展開が、想像出来ない。  ――― 俺は一体どうなるんだ? 「これを、見ろ」  つたない日本語が聞こえ、ジョッキの背後から長い腕が回り込んで来た。その手には携帯電話が握られ、一枚の写真が写っていた。あの時ジョッキが撮影した、カオリのあられもない姿だった。 「お前が撮ったな?」 「……」  ジョッキは答えなかった。 「お前が撮ったんだ。我らが聖母を」 「……セイボ?」  そして再び耳元でロシア語が囁かれる。  おそらくこのロシア人は、俺が撮影して一斉送信したメール画像に含まれる情報を頼りに居場所を特定して来たのだ……と、ジョッキにもそこまでは理解出来た。だが何故ロシア人がこの一件に噛んで来るのかが分からなかった。 「見ろ」  背後でロシア人が言う。後頭部を掴まれ、無理やり目線を上げられる。ジョッキの眼に、ほんの数メートル先に見える表通りが映った。短い髪の、ライダースジャケットを着たガタイのいい男が誰かと携帯電話で話をしている。 「お前はもうあっちの世界には戻れないぞ」  ぼそ、とロシア人がそう言った。 「……え?」  振り返ろうとしたジョッキの頭を、背後のロシア人がとてつもない力で固定した。振り返ろうにも、ビクともしない。 「見えるだろ。ほんの少し走っていけば、お前がいた、明るい世界だ。でも、もう、そちらへは行けない」 「な、なんだよ、何なんだよお前!」  背後から手が伸び、ジョッキの口を覆った。  ミハイルはジョッキの耳元に唇を寄せ、ロシア語でこう囁いた。 『アサミカオリは我々同胞にとって聖母である。お前は我らが聖母を汚した大罪人である。空へ向かって飛ぶがいい。我々がその手助けをするだろう。しかしお前がその足で大地を踏みしめることはもう二度とない』  寒いのは平気か、とミハイルは聞いた。  聞こえてはいた、しかしジョッキは答えられなかった。 「寒いぞ。シベリアは」  ジョッキはそのまま数人の男たちの手で連れ去られた。事件後、彼の姿を見た者はいない。
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