クロスボーン.2

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クロスボーン.2

 バシン!  誠の目の前で音がした。何かがぶつりあうような音だった。次いで竜二が眼前で両手をクロスしたまま上体を仰け反らせ、 「おお!」  と驚くような声を上げた。ひっくり返しはしなかったが、予想以上の強さで竜二の腕に何かがぶつかって来たのだ、と誠には見えた。そしてその何かは、人だった。 「誠、下がれ」  竜二が前を向いたまま右手で誠の体を押した。竜二には見えていたのだ。一瞬、オリヴィアの首根を掴んだ何者かの手。危険を感じ、咄嗟に飛び出すことが出来たのも、竜二のこれまでの経験則によるものだった。  ――― オ、オリヴィアさんは?オリヴィアさんはどうなったの!?  誠が答えを見つける暇はなかった。ついさっきまでオリヴィアが立っていた廊下の曲がり角、その向こうから一人の男が悠々と歩いて現れたのだ。竜二とほぼ同じ上背で、こちらも肩幅のガッシリとした男だった。彫の深い顔立ちには落ち着き払った表情があるだけで、これといった分かり易い感情は読み取れない。 「あ!お前!」  と、誠の背後で声がした。おそらく叫んだのは三井だ。だが振り返れなかった。思いがけず至近距離から現れた正体不明の男に気圧され、誠の足がすくんでしまったのだ。 「おい」  竜二が右手を前に突き出して男に掴みかかった。上下黒のスーツを身にまとったその男は瞬時に竜二の手首を掴み、目にも止まらぬ速さで足払いを放った。竜二は右足に激痛を感じてバランスを崩すも、そのまま全身で倒れ込むように男へ体重を預けた。 「ち」  男は煩わしそうな顔で、竜二の手首を掴んだまま後方へ受け流そうとした。だがそれでも竜二の握力が上回っていた。竜二はステップを踏んでこらえ、手首を掴まれたままの男の体を腕相撲の要領で押し返した。 「何だお前」  と男の唇が動いた。そこへ、曲がり角の向こう側へ消えたオリヴィアが男の足に縋り付いた。 「竜二さん行って!」  オリヴィアの額は切れて真新しい血が滲んでいた。「セキタンをお願いします!」  男は構わず足を引き抜き、振り返ってオリヴィアの顔面を蹴った。  病院の廊下である。偶然騒ぎを目撃した来院患者たちが悲鳴を上げ始め、場はすぐに注目の的となった。オリヴィアは鼻血を滴らせながらそれでも男の足に食らい付いた。 「竜二さんお願い!」  竜二は唸った。目の前の男がどういう素性であれ、いきなり襲い掛かって来たこの男がエンジンたちと無関係であるとは思えない。となれば当然、カオリを手にかけた連中の仲間だということになる。  ――― そんな男を目の前にして退けってのかよ。 「竜二さん!」  オリヴィアの目が睨むように竜二を見ていた。普段はオカマ口調の絡みづらい男だが、まだ学生だった頃からこいつのことを知っている。竜二は思うのだ。この場で一番冷静なのは、案外オリヴィアかもしれないな……と。  竜二は誠の手を掴むとその場を離れ、 「お前も来い」  三井の肩を叩いて走り出した。いや、走り出そうとした。 「りゅ、竜二さん!」  誠が急に立ち止まる。何だよ、と振り返った竜二の視界に映ったのは、オリヴィアの肩口を強引に蹴り飛ばして疾走する男の姿だった。男の向かう先には、間の悪いことに行方知れずとなっていた押鐘美央が立っていたのである。  ペキンは握った拳で口元を抑え、震えたままその光景を茫然と眺めた。視界そのものが振動し、歪んで見えた。  緞帳の下りたステージの前、明度を落とした照明が照らし出すダンスフロアに、アップルが大の字でひっくり返っている。店の中に入った途端、急に引き返して来たパーカーの男がアップルの襟首をつかんで引き摺り倒した。名前を教えてくれない東京者が、その腕を取って間に入ろうとしてくれた。だが一緒早く、パーカーが強烈な蹴りをアップルの顔面に叩き込んだのだ。  それで終わりだった。アップルはそのまま失神してピクリとも動かなくなってしまった。ペキンは慌ててアップルを助け起こそうとした。だがそんなペキンの背後から腕が伸びて来て、ゆっくりと首を絞めた。いや、ペキンが前に出なければその腕は首を絞めて来ない。だが一歩でも前に出れば、たちまち頸動脈を締め上げられてしまう。 「……なん」  ペキンは震えながら、背後から漂って来るムスクの香りを嗅いだ。  パーカーの男は右手に持っていたコンビニ袋を指先にひっかけ、ステージ上の緞帳を左手で押しながら買って来たものをそこに置いた。鼻歌を歌っていた。考えてみれば、パーカーの男はここへ来る直前誰かと電話で話をしていた。こちらは三人いたせいで気が大きくなっていたが、アーバンホール内にどれだけの人数が待ち構えているのか、それを全く考慮していなかった。  ―――来るんやなかった!  ペキンは早くも後悔していた。視界の端に、出入り口へと続く廊下を塞いでいる別の男が見える。そして自分の背後に一人、さらにはパーカー。分かる範囲だけでも三人いるのだ。入店早々戦線離脱したアップルが妬ましく思えた程だった。 「……ほいで、何の用?」  と、パーカーが振り返って翔太郎を見た。だが、そのまま穏やかな会話が始まることはなかった。パーカーが振り返るとほぼ同時、翔太郎が手近に合った小さな椅子を掴んでぶん投げた。椅子はパーカーに激突するも、直前に交差させた腕が顔面直撃を未然に防いでいた。  ペキンの喉が、きゅ、と僅かに締まった。 「お前なぁ」  怒りの籠った眼で睨みつけて来るパーカーに、 「いい加減質問に答えろよ」  と翔太郎は言い放った。「答えねえなら用無しなんだよ」 「おもろいなー、自分」 「ここ禁煙じゃないよな?」  煙草を咥える翔太郎に、ペキンの背後で面白がるような笑い声が聞こえた。低くしゃがれた声で、少なくとも三十は越えているような年齢に感じられた。 「俺が風早かどうか聞いてどないすんねん」  と、パーカーは問う。 「お前を今ここで潰すか、東京へ連れて帰るかを決める」  翔太郎が答えると、 「はあ」  パーカーは頷き、手首を摩りながらこう答えた。「俺が風早やで」  翔太郎が煙草を咥えたまま飛び出した。風早は上体を低く落として翔太郎の攻撃に備える。  翔太郎は固く握った拳で弧を描き、上から風早の顔面めがけて振り下ろした。風早は一瞬受けの姿勢を見せたが咄嗟の判断で後ろへ下がり、間一髪の距離でギリギリ翔太郎の拳を避けた。  右肩の下がる翔太郎の隙を逃さず、風早が前蹴りに近い形の膝蹴りを突きあげた。翔太郎はその蹴りを肩に喰らって後ろへ吹っ飛び、思わず咥え煙草を落とした。 「ああ」  今火をつけたばかりなのに ―――  そう言わんばかりの表情に、風早の目に炎が浮かんだ。  バッ、と風早が両手を開く。一瞬にして両者の距離が詰まり、翔太郎の衣服が握り込まれた。 「うあ」  気付いた時には翔太郎は投げ飛ばされていた。柔道でいう背負投げに近い技だった。二人の身長差はほどんとなかったが、掴んだ相手の懐に潜り込む風早の速度が素人のそれではなかった。翔太郎はほとんど受け身を取れずに背中からフロアに叩きつけられた。仰向けに倒れた翔太郎の胸に、風早の右足がズドンと降って来る。  翔太郎は何とか左腕を持ち上げ靴裏を受け止めたが、そのまま踏み込まれて上から潰された。肺が圧迫され、息が止まる。 「余計なことしてくれたわ、ほんまに」  風早が言う。「あの女がタイミング良う現れた時もなんやおかしな気配は感じたけど、所詮ガキや思うて甘い顔したんが失敗やったか。君が、美央の男なんか?」 「……」  翔太郎は無言で風早の足を押し返そうと力を込めた。だが全体重をかけて来る風早を押し戻すことは出来ず、どんどんと息苦しさだけが増して行った。 「美央を押さえてるてどういう意味なん?」  翔太郎を見下ろしながら、風早が問う。「あいつが抱えてる在庫を君が肩代わりしたっていう意味?それは何、俺らを脅してるわけ?」 「……」 「ひょっとして君、最初からそのつもりで美央を送り込んだんか?もしそうなら悪い男やなー。潰されたベイロンの後釜にタイミング良う滑り込ませたのはええけどやぁ、俺らそんなんよう分からんから、知らずに未成年の女の子頂いちゃったやないの。あ、これ警察には言わんとってや?」 「……」 「肝の座った女やったけど、やっぱ泣いとったでえ。それもこれも、全部君が悪いんとちゃうのん」 「右か?左だっけな?」 「……え?何が」  翔太郎は、諦めた。風早の体重の乗った足を胸の真ん中で受け止め、歯を食いしばり、そして空いた両手で風早の足首を掴んだ。 「……何それ」  確かに翔太郎の握力はすさまじかった。だが掴んでいるのは足首だ。風早にしてみれば強めのマッサージ程度の痛みしか感じない。グ、とさらに風早が体重を乗せた。 「フグ!」  翔太郎は全力で風早の足首を掴み、。 「ん?」  風早の眉間に皺が刻まれた。これ以上踏み込めない、と思った。  その瞬間、フロアで仰向けに倒れている翔太郎の体が右側に抜け出た。翔太郎は風早の足を押し返す事も、ましてや握力で握りつぶす事も考えていなかった。自分の胸の高さで位置を固定し、一瞬の勢いを利用して抜け出したのだ。  ズダン、と風早の右足がコンクリートを踏み付けた。翔太郎は左膝を着いて素早く上体を起こし、すぐさま風早の襟に右手を伸ばした。 「雑魚い」  風早は翔太郎を上回る速度でその手を取った。そしてそのまま右背負投げの態勢へと持って行く。風早の背中が見え、身体が深く沈み込んだその刹那、 「お前がな」  翔太郎は風早の股の間に左手を入れ、後ろから持ち上げた。風早が無理やり投げ飛ばそうと体を回転させる。翔太郎は咄嗟に飛んで、左膝を風早の腰にあてがい真上から圧し潰した。風早の右足がフロアで踏ん張るも、腰を圧されて激痛が走った。 「イッ……!」  翔太郎は掴まれた手を引き抜き、そのまま右ストレートを風早の後頭部に叩き込んだ。 「ガ!」  風早がうつ伏せに倒れ込んだ。だが、翔太郎は止まらなかった。背中のフードを掴んで引っ張り上げると、後頭部に右足を乗せてそのまま踏み抜いた。ぐしゃ、という音とともにフロアに鮮血が飛び散った。  ペキンは、薄れゆく意識の中でその一瞬の攻防劇を見ていた。 「マ、くん!」  突然背後の男が叫んだ声に、翔太郎がゆっくりと振り返った。翔太郎の目は驚きに見開かれていた。
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