嫌な客

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嫌な客

「う、うしろ」  尻を蹴り飛ばされてピクリとも動かなくなったペキンの口から、突如寝言のような声が発せられた。反射的にパーカーを振り返った翔太郎に、ペキンの尻を蹴ったヤクザが好機と見て襲い掛かる。翔太郎は隙を突かれて背後から首を絞め上げられるも、いつの間にかステージの方を向いて立っているパーカー……松本の後ろ姿を見据えて目を細めた。  ――― メバルより頑丈だな。  翔太郎は自分の首が締まることを覚悟の上で、軽く上へ飛んでから両足を前に投げ出した。当然、翔太郎の全体重が背後の男の腕に圧し掛かる。 「うお!」  思わず体が前に倒れ掛かる所へ、翔太郎はしゃがんだ状態から一気に立ち上がって背後の男へ頭突きをかました。男は顎に直撃を喰らって腕を離した。 「いってえ」  頭頂部を押さえながら翔太郎は半笑いになった。そこへ廊下の男が傘を片手に襲い掛かって来た。翔太郎は思う。……五秒遅いんだそれじゃあ。  翔太郎はまだ手に持っていた潰れた煙草の滓をそちらへ投げつけ、咄嗟に身構えたその男の横面に回し蹴りを放った。 「う!」  蹴りは男の顔面を叩いた。だがそれと同時に翔太郎もパーカーの突進を喰らって吹っ飛んだ。実際には抱え上げられそうになったのだが、床で四つん這いになっていたペキンが二人の足を掬った形となり、翔太郎は壁際に積まれた椅子の上に投げ出された。しかし、翔太郎が態勢を整えるより早く、顔中を自分の血で濡らしたパーカーが掴みかかって来た。 「お前、松本なの?」  と翔太郎。 「殺すぞまじで」  下から見上げる翔太郎の体に圧し掛かり、松本は顔面の血を滴らせて、言う。「お前だけでは済まさんからな。押鐘美央も攫ってまた犯す。お前の母親も親戚も友達も姉妹も女は全員拉致って犯す。その後手足を切ってアジアに売り飛ばしたる。男はみーんな内蔵抜いて海に沈めたるからよう覚えとけよ!」 「そうか」 「……はあ?」 「どけよ半ナマ」 「こ……ッ」  翔太郎は右腕を素早く隙間にねじ込み、松本の鼻をつまんで骨を右にずらした。ただでさえ折れた鼻の骨が、今度は反対側へと捻られたのだ。松本は言葉にならぬ声を上げてたたらを踏んだ。 「俺もお前もそうだと思うけど」  翔太郎は真っすぐに立ち上がって乱れた襟元を直した。「殺す殺すと息巻く奴ほど本当はそんなこと考えてやしないんだ。どうせヤクザの啖呵真似して粋がってるだけだろ。少なくとも、お前が風早じゃないことが今やっと分かったよ。でもな、松本くん」  翔太郎は左手を伸ばして松本の後頭部を掴んだ。 「噓でも言っていいことと悪いことがあるだろ」  その頃東京では、神波大成が後輩の上山を伴い、桐島清一なる藤和会の構成員を探していた。行方が分からなくなってからすでに数日が経過している。上山の話では、桐島は藤和会から所払いを喰らった身であり、例えこのままどこかへ消えたとしても捜索の手が伸びて来ることはないだろう、と三井から聞いたそうだ。もちろんここで言う捜索の手とは藤和会のことだが、大成にしてみればそれは全く喜ばしい話ではなかった。  エンジン一派の凶暴性と機動力の高さは決して油断できるものではないし、何なら警察や藤和会本体の横槍が入って場を攪乱してくれた方が、大成たちにとって有利ですらあるのだ。一般市民を巻き込んだ襲撃事件を起こしたかと思えば、ほとんど日を開けずに今度はアサミカオリを的にかけた。それでもまだ誰一人犯人を捕まえられていない。  爆発寸前のアキラの手綱は今は何とかカオリが握ってくれている。だがそれもいつまでもつか分からない。翔太郎が消え、竜二も街を彷徨っている。大成は自分に何が出来るのかと考え、途方に暮れる思いだった。人を探すと行ったって、どこを、どんな風に……? 「あ」  その時、横を歩いていた上山が不意に立ち止まった。「大成さんあれ」 「……」  見やると、上山は前方の雑踏を指さしていた。こちらに向かって歩いてくる、四十代くらいの男がいた。黒髪をびっちりと後ろへ撫でつけた、なかなかに凶悪な人相の男、である。到底堅気には思えないが、かといってヤクザが強面を曝して肩で風を切る時代はとうに終わった……筈だった。 「面倒くさ」  大成は独り言ち、「俺パス」と雑踏に背を向けた。 「いやいや、挨拶しないのはまずくないすか」  上山が焦った声を出して同じく振り返ると、二人の目の前に背の高い若い女が立っていた。前髪を短く切りそろえたショートボブで、耳朶が見えなくなる量のピアスが両方の耳を覆っている。肌寒いこの時期にも関わらず体のラインを拾うタイトな黒のロンT一枚、下はデニムのショートパンツ。足元はバカでかい黒の厚底スニーカー。 「うわ」 「うわ?」  無意識に漏れ出た大成の吐息に反応し、女は目玉が零れ落ちそうなくらい両目を見開いた。「ひどいー。ひど過ぎです大成さーん」  鼻にかかった甘い声である。人通りの多い路上で、そこそこ大きな声だった。 「分かった分かった、分かったから」  手で制して宥めようとする大成に微笑み返し、女は高い背をさらに伸ばして二人の背後へ視線を移した。 「師匠ー、師匠ー、ここに酷い人がいますー、酷い大成さんがいますー、あとついでにテツくんもー」  女はわざと大声を出して、雑踏の中から強面の男を招き寄せた。お前なあ、と怒りを抑えた声を出す上山を平然と見上げ、 「何よー」  と女も負けじと詰め寄った。気が強いというよりも、二人に対して全く物怖じしない、根っからの明るい性格の持ち主だった。見た目はまだ十代後半から二十代前半といった若さである。師匠と呼んだ強面の男とは親子ほども年齢が離れているだろう。やがてその男が大成らの背後に立って、 「邪魔だよ」  と言った。腕まくりした白のロンTに、下はダボついたカーキのワイドパンツ、足元はサンダル。手首から肘、顔に首、露出している肌の殆どに墨が入っていた。 「ち」  と舌打ちする大成に、上山がゴホンと咳払い。大成も上山も背が高い。人込みの中で立ち止まっては、後から来る通行人たちも進路を変更せざるを得ない。入れ墨の男はそのことを言っている、と大成もそれはわかっていた。 「こんちわー」  低い声で言いながら路肩へ寄って、大成は煙草を取り出して唇に挟んだ。だめっす、と言いながら上山がその煙草を抜き取った。 「ホリさんが煙草嫌いなの知ってるでしょ」  泣きそうな声で上山が言うも、 「俺になんの関係がある?」  と大成も譲らない。 「別にいい」  強面の男が言う。「ここは俺の店じゃないしな。そこに灰皿もある。別に吸ってもいいぞ。吸えよ」 「あんたの許可なんかいらないんだよそもそも」  大成は上山から煙草を奪い返して口に銜えた。ジュ、とすぐ側でライターの音が聞こえたかと思うと、いつの間にか大成の隣に立っていた例の若い女が煙草に火をつけた。大成は一瞬面食らい、何となく負けた……という顔でそっぽを向いて煙を吐き出した。 「人を探してるんだってな」 「……え?」  口を開いた強面の男は、三浦正人(みうらまさひと)。通り名を「彫緋人(ほりひと)」と言った。プロの彫師で、この街に自分の店を持っている。元々は一栄会(いちえいかい)という暴力団の組員だったが、一念発起して足抜けし今に至る。大成たちとも知らぬ間柄ではなかったが、どちらかと言えば彫緋人よりも若い女の方に縁があった。 「天子(てんこ)から聞いたぞ」  と彫緋人は言う。「お前らが面倒なことに首突っ込んでるらしいってな」  彫緋人が喋ると、首筋に彫られた赤い龍がうねうねと蠢いて見えた。 「師匠、天子って呼ばないでください。私もうすぐデビューするんです。だからちゃんと彫緋天(ほりひてん)と呼んでください」  大声で言い返す若い女は、名を串木天子(くしぎてんこ)と言った。彫緋人の弟子で、自ら「彫緋天」と名乗る彫師見習いである。年齢は上山の一つ下で二十二歳。高校中退組である大成たちとは学生時代に出会ってはいないものの、上山を介して皆と面識があった。持ち前の明るさとその強引さで、知り合いになった人間全員を練習台にして彫り物の腕を磨いた、という逸話を持っている。整った顔立ちをしている為、普段は男が寄り付くのを嫌って年中バンダナかマスクで目以外を隠している。上山はまだしも、大成にいたっては顔を思い出すのに時間がかかる程である。その彫緋天が素顔を晒して大成たちの前に現れたのは、単なる偶然ではなかった。 「だって私の方にまで連絡回って来たんだもん」  と彫緋天は言う。「テツくんが後輩とか仲間に頼って人を探してるらしいって。なんか隣街とか行ったり来たりしながらかなり忙しそうだーとか、テレビでニュースになってた喫茶店の事件と関係があるらしいぞー、とか?」 「ああ、うん」  上山はバツが悪そうに頷いて、そっと彫緋人から目を逸らした。むろん彫緋天を巻き込むつもりはなかったし、そもそもこちらからは連絡を取っていない。だが昔のよしみなのか、心配してこうして出張って来てくれた、ということらしかった。しかも、元ヤクザの師匠を伴って……。 「あー、じゃー」  大成は煙草を灰皿でもみ消し、「せっかくだしひとつだけ聞いていいか」と彫緋天ではなく師匠である彫緋人の前に立った。 「あんたぁ、この街長いよな」 「それが質問か?」 「山規組が追い出された話聞いてるだろ。一栄会のあんたにはどうでもいいだろうけど」 「質問は何だ」 「ハイウィンドを名乗ってる、エンジン一派の隠れ家を探してる。知ってる連中じゃないかと思って」 「知ってるー」  と彫緋天が割って入って来た。「というか、師匠、墨入れたことありますよね?その人たち」  大成と上山の目が彫緋天を睨んだ。 「わ?私はまだだよ、私のデビュー戦は翔太郎さんたちって決めてるからずっと。ま、テツくんでもいいけど? でもそれより、なーんか嫌な客でしたよねー?師匠ー?」 「客に嫌も良いありゃしねえ」  と彫緋人は言う。「金さえ払えば関係ない。あとは自分との勝負だ」 「ってこたあ」  言いかけた大成の話を聞かず、 「キューだ」  と彫緋人は答えた。 「いや、そっちじゃない」  大成は頭を振って言う。「多分違う。そっちはもう竜二が行ってるんだ。俺たち今人を探してて。元藤和のヤクザで、そいつがエンジンに攫われてどっかにいるはずなんだよ」 「……」  彫緋人は眉根を寄せ、視線を足元に落として考え込んだ。
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