13人が本棚に入れています
本棚に追加
私はそっと目を開け、しゃがんだまま何度か瞬きをした。おかしなことが起きていた。私が逃げ込んだビルの床は人工大理石だったのに、黒ずんだビニル床に変わっていたのだ。
考えが思わず、声となった。
「建物が違う」
都心のオフィスビルで雨宿りをしていたはずが、私が居るのは雀荘でも入っていそうな雑居ビルの入り口だった。
外を見ると、いつの間にか雨が上がっていた。路面は濡れていなかった。陽射しが強く、その分建物の中は奥に行くほど陰が濃くなっていて、突き当たりの壁が見えないほどだった。
振り返った私の目を、壁に貼られた「第2ビルヂング」の金属プレートが捉えた。建物の名前にも、書体にも見覚えがあった。
私は慌てて太陽の照らす眩い世界へ飛び出した。見てはならないものを目にしたようで、暗がりにいるのが怖くなったのだ。
生まれ育った家の近所にあった雑居ビルは、私が夕立を避けて逃げ込んだ場所とは遠く隔たった土地に建っていた。しかもその一画は再開発により大型の商業施設へと建て替えられたはずだった。もう二十年も前のことだ。
私は生まれ故郷の、およそ三十年前の光景の中にいた。すぐそばに「小錦町三丁目」と書かれた電信柱が立っていて、根方にはタバコの吸い殻が落ちていた。ビルから張り出した黄色い庇には白抜きの文字で「焼肉・ホルモン」と書かれていた。店の名前はちょくちょく変わるので、ペンキで塗りつぶされている。見覚えのある風景に心臓がいち早く反応して、やや駆け足気味の拍動を始めた。
「やめてくれ。これではまるで……」
その先の考えを口にしてはいけない気がした。他人に聞かれたら笑われるからではなく、声に出したらそのことが起こる気がしたのだ。
最初のコメントを投稿しよう!