第10話 B-29初空襲

1/1
前へ
/40ページ
次へ

第10話 B-29初空襲

昭和19年5月。 東シナ海上空10000mを1機の航空機が飛行していた。 飛行機雲を出すこの機体は米陸軍のB-29をベースとする偵察機 F-13 であった。 この機体は偵察専門で武装はなく、爆弾倉も長距離飛行の為 燃料タンクに改造されていた。 中国の基地を発ったこの偵察機の目標は北九州にある 八幡製鐵所周辺である。 カメラ担当のデービスは偵察目標に着くまで得意のスケッチを 描いていた。 彼の横、機体の側面には半円形の窓が設置されている。 まもなく日本上空に差し掛かったころ突然、窓から入る日差しが 一瞬途切れた。 気づいたデービスが何だろうかと半円形の窓からあたりを見回していると 上空から何かがやってくるのが見えた。 デービス「敵機???」 次の瞬間、デービスの位置から3mほど前方に「カンッカンッカンッ」 という音とともに数か所に5cm程度の穴が開いた。 与圧されていた機内は次の瞬間、霧に包まれ猛烈な速さで空気が 抜けていった。 乗員はそれぞれが酸素ボンベを探して機内は完全にパニック状態 となった。 機長は緊急降下を開始したが、迎撃機の2射目で左翼が半分折れて その必要は無くなった。 機体は回転しながら墜落していった。 迎撃に上がっていたのは陸軍第1振武隊所属の四式戦闘機2型 通称 四式改 2機であった。 現代日本より贈られたターボチャージャーとオクタン価を高める添加剤 のおかげで10000mを飛行する敵機を撃墜することができるように なっていた。 史実ではF-13の撃墜記録は無かったので現代日本の介入により記録が 塗り替わったことになる。 現在の福岡市の南西約28Km付近に 大刀洗陸軍飛行場 があった。 ここに新しく第1~4振武隊の4つの部隊が配備となった。 振武隊は内地防空計画により生まれた内地防空専門の部隊で隊員は ほとんどが10代という若い隊員ばかりである。 四式改は量産が始まったばかりで部隊内でまだ多くは四式戦闘機だった。 高高度迎撃は 四式改 でないと難しいので多くの隊員は中高度での 訓練に明け暮れていた。 能力が優れたものから順番に四式改への機種改変が行われ 昭和19年10月頃には保有機の全てが四式改になっていた。 振武隊は陸軍の飛行戦隊の構成とは異なり1つの部隊が中隊規模で 12機前後で構成されていた。 四式戦闘機から四式改への機種改変はコックピット(操縦席)まわりは ほぼ共通で若者達はすぐに慣れたが、高高度での挙動は中高度と比べて かなり違うので高高度訓練も行われた。 これが出来た理由の1つはシーレーンが確保され、石油が順調に輸入 されていたので訓練用の燃料を心配しなくて良かったためである。 昭和19年6月16日 未明 大刀洗陸軍飛行場でけたたましいサイレン音が鳴り、第1~第4振武隊 のうち、四式改に機種改変済の計24機が一斉に発進した。 この日、中国のフライングタイガース基地からアメリカ陸軍航空軍 第58爆撃団所属の「B-29」75機が北九州各地を空爆すべく 日本本土に接近していた。 現代日本よりの技術協力で当時のレーダーによる索敵能力は格段に 向上しており、早期の対応が取れるようになっていた。 現代日本より提供された暗視ゴーグルを装着した振武隊の若者達は 月明りの中、敵の編隊に立ち向かっていった。 B-29は機体の下部中央付近に爆弾倉がある関係でその付近は 機銃などがない。 そこで敵機の真下からターボパワーで急上昇しつつ、敵機中央部分に 20mm弾を浴びせかける戦法がとられた。 四式改は20mm機関砲4門を装備しており、また銃弾は現代日本の 技術により破壊力5割増しになっていたので命中すれば 次々撃墜できた。 この日の迎撃戦で「B-29」22機撃墜を記録。 撃墜率3割だった。 味方機は半数が被弾したが全機無事、大刀洗飛行場まで戻ってきた。 そして現代日本のカーボン防弾により搭乗員に負傷者は いなかった。 実戦を経験し帰還することは兵士を成長させる。 それまで長い者は半年以上訓練を受けている振武隊の隊員達は 着実に精強な戦士になりつつあった。 若者達は一度限りの特効攻撃とは真逆の成長を遂げていく。 米国側の記録では撃墜に至らずも被弾の為、帰投中7機が脱落し 無事中国に戻ってきたのは46機だった。 八幡製鐵所の損害は軽微だったが周辺地域での空爆による死者は 100名を超えていた。 これがB-29による本土初空襲となった。
/40ページ

最初のコメントを投稿しよう!

28人が本棚に入れています
本棚に追加