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りつ【立】
一、足場を定めてたつ。まっすぐにたてる。
二、根拠や基礎をしっかりと定める。なりたつ。
三、…………
上田はそこで頁を捲るのをやめた。“根拠”の読み方が分からなかったからだ。
分厚い辞書をよいしょという声とともに閉じる。赤色の表紙。金色の『国語辞典』の文字。大きく息を吐いた。十一歳、小学生のものとは思えない溜息。しかし、それを聞く相手もいない。
上田はぐるりと教室を見渡した。誰もいない。担任の橋本は職員室に戻ってしまったし、友達は帰ったか、グラウンドにいる。なぜそれが分かるかというと、先刻からずっと、グラウンドでドッヂボールに興じる男子らの声が、上田の耳まで届いてくるからだ。
上田は自席から立ち上がる。窓までふらふらと歩いて、そこから下を覗いた。眼下のグラウンドでは学年入り混じって、放課後の楽しみであるドッヂボールや、フットベースボールを行う男子の姿が見える。中には同じクラスの親友、大迫や金井の姿があって、彼らが大口を開けて笑うのを、上田はぼんやりと眺めた。
やがてそれにも飽き、席に戻る。教室の最後方に飾られた作品――図工の時間に皆が作成した――を横目に見ながら。
『将来の夢を形に』と題されたその作品群は、上田にとってあまり面白いものではない。彼は、自分の名前が下部に貼られた作品に近寄った。地球を紙粘土で模したもの。上田の夢は宇宙飛行士だ。だから青い地球を一生懸命作ったのに、皆はそれを見て笑った。橋本先生は、面白いなと言っただけで、あとは何も言わなかった。なんだかそれが、「面白いけど素晴らしいとはいえないな」と言われているようなのが、いやだった。クラスメートの視線はもっといやな感じだった。
毀そうかな、これ。ふと上田は思ったが、それは宇宙飛行士になりたいという自分の願いも毀すようで嫌だった。
結局、何もしないまま席に戻る。相変わらず、教室には自分ひとり。今日は曇っているから夕日も差してこないし、それがもっと上田を気落ちさせた。
改めて、机上の用紙に向き合う。
『あなたの名前にこめられた意味は?』
知らないよ、そんなの。先刻から上田立の頭の中で、ぐるぐる回っているのはそんな考えだった。だから道徳の授業のとき、適当に「立派の『立』だと思うので、がんばります、いろんなことを」と書いて出したら、橋本先生に突き返された。なぜかは知らない。先生がダメだというのなら、ダメなんだろう。
立は顔を上げて天井を見つめた。
お母さんに訊いてみれば、と先生には言われたが、それだけは絶対にいやだ。お母さんは、自分が眠ったころに帰ってくるし、最近は「おはよう」も言わなくなった。朝、すごい眼つきで、先に目覚めた立を睨むだけだ。そして、また眠る。立だって眠いのに、だ。
朝ごはんはテーブルの上に置いておいてくれるから、まあいいけどさ。ああ、お父さんがいればなあ。でも俺には、お父さん、いないしなあ。
立は顔も知らない父親のことを、ちょっとだけ考えた。そして、やめた。何も思い浮かばないからだ。誰も、立の父親のことを知らない。お母さんは「お父さんはアタシと立を捨てたんだから」と言って怒るから、何も訊けない。じいちゃんとばあちゃんは変な顔をしてお菓子をくれる。だから、なにも訊かない。
じいちゃんたちに訊いても、分かんないだろうな、こんなの。
立はまた諦めの溜息を吐いて、辞書を捲った。もうこれしかない、と思った。自分の名前がどんな意味を持っているかなんて聞いたこともないし、漢字の意味なんてもっと知らない。それで調べたら、読めない漢字だらけ。辞書は嫌いだ。本が嫌いだ。
じっとしてなさい、とよく言われる。じっと、って何だよと思う。友達はそう言われると、とても姿勢よく椅子に座り直すので、そんなもんかなと思って同じようにするが、立には未だに“じっと”の意味が分からない。
俺みたいなのに、こんなの書かせようとする先生が悪いんだから。
なんとなく、頭の中で愚痴を言ってみて、今度は辞書の“立つ”を引いてみた。引き方は先生が教えてくれたから、時間はかかるができる。
た・つ【立つ】
一、ある場所にまっすぐ縦になっている。
二、座ったり横になったりしていたものが起き上がる。また、低い位置から高く上る。
三、身を起こしてその場を離れる。「席を―・つ」「手洗いに―・つ」
四、(「起つ」とも書く)決意して事を起こす。奮起する。「反対運動に―・つ」
五、戸や障子が閉じる。「雨戸が―・っている家」
六、自然界の現象・作用が目立って現れる。
七、……………
多いって!
立はまた、途中で読むのをやめた。ここまで読んだだけでも褒めてほしいくらいだ。ちなみに、数だけ数えたら、“立つ”の意味は十五個もあった。そして結局、何が言いたいのかよく分からない。とにかく真直ぐになってるってことだな、という程度には理解できるのだが、だからなんだという感じだ。
おまけに、“立つ”の周りには“建つ”とか“発つ”とか、同じ読み方でも感じが違うものがたくさんあって読みにくい。ちょっと読み進めたら“達意”とか“手束”とか、聞いたことのない言葉がもう、出てくる。
もう、いやだな。立がむしゃくしゃして、また辞書を乱暴に閉じようしたとき、教室のドアが開いた。そこから、橋本先生がにょきっと顔を出している。橋本先生は野球部の先生だから、顔が真っ黒だ。
「苦戦してるなあ」
面白そうに言うなよ。思ったし、立はそのままそれを口に出した。そうすると、橋本先生はまた笑う。
「立。いい名前だと思うけどなあ、俺。どんな意味なんだろう」
先生がお母さんに訊け、とはもう言わなかったので、立は少し安心する。お父さんがいないのも知っているから、そんなことも当然言わない。
橋本先生はさっき立がそうしたようにして、窓から外を眺める。
「夕立が来るかもって話だから、立、今日はこの辺にするかあ」
「なに、ゆうだちって」
立の疑問に、橋本先生は振り返って親指で窓の外を指し示した。
「こういう天気から、いきなり雨が降ること。そういうこと、たまにあるだろ?」
それは知らないけど。立が言うと、先生は近寄ってきて辞書を掌で触った。これで調べてみろよ、と言う。せっかくあるんだからさ。だから、せっかくって何だよ。大人はしょっちゅう、それ言うけどさ。
まあ、辞書を引けと言っているのは分かったので、やってみる。ゆうだち、と先生は言った。
ゆう‐だち【夕立】
一、夏の午後に降るはげしいにわか雨。雷を伴うことが多い。白雨 (はくう) 。
二、夕方になって、風・雲・波などが急に起こること。
“立”の漢字が使われていて、立は驚いた。すると、意味も読みたくなる。幸い、分からない漢字は“伴”だけで、他は読める。はげしい雨。雷。風、雲、波が起こる。
「なんか、かっこいいね」
橋本先生は立の言葉に、そうかな、と返事する。
「先生にはわかんなくても、俺にはかっこいいの」
立は、どんよりしていた気持ちが、ほんの少し軽くなった気がしていた。なぜかは知らないが、夕立の意味を調べてよかったと思えた。はげしいとか、いきなりな感じとか、俺に合ってるかも。なにより。
かっこいいじゃん。
窓の外を眺めた。曇りだ。ぜんぜん、いい天気じゃない。これから雨が降るのか。
『あなたの名前にこめられた意味は?』
そんなの知らないけど、書くことはできそうだ。
雨がはやく降ってくればいいのに、と立は思った。
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