都橋探偵事情『莫連』

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 菊名駅で男が倒れたと通報があった。神奈川西署の多田刑事はすぐに現場に直行した。午前に伊勢佐木中央署の二人から真金町で絞殺された男はスリ集団の仲間とみて捜査している話を聞いている。その殺害手口から怨恨の可能性も考えた多田は気になって出向いたのである。夕方のラッシュ時、スリの稼ぎ時である。菊名駅ホームの中央部はシートで囲われていた。男は既に死亡していた。多田は男の所持品を確認した。折り畳みの財布には名刺が入っている。どれも一枚ずつで本人のものではない。札が千円札一枚と小銭である。本人の身分を特定するものは何一つない。 「後ろから刺されてます。それも四カ所、刃の短いナイフでしょうがかなり深く刺し込んでいます」 「その車両は?」 「乗客が満員なんで鴨居駅で別車両に乗せ換えるそうです」  多田は男の顔をじっと見た。出血多量で顔が青白い。齢は成人したばかりに見える。 「鍵がひとつありました」  鑑識が多田に知らせた。多田は手袋をして鍵を受け取った。自転車でもない、車でもない、真鍮製で古くさい。 「この鍵の複製が欲しい」  鑑識は頷いた。恐らく住居、アパートかもしれない。 「通報したのは誰です?」 「駅員です、ドアが開くと同時にホームに倒れたそうです」 「そのドア付近に乗っていた客は?」 「帰宅しか頭にないのでしょう、誰一人立ち止まる者はいませんよ」  身動き出来ないほどの車両、誰もがドアに張り付いた他人に興味はない。息を吐かないことがマナーのようになり、毎日会う通勤者と打ち解けることはない。大概の勤め人は大体ホームに立つ位置を決めている。車両もほぼ同じ位置を選ぶ。家から出て会社まで、帰りはその逆、道程にそれぞれの癖がある。軽い縁起担ぎである。恐らく顔を見れば大概覚えている客がいるはずだ。多田は明日の帰宅時間に同じドアに乗り込んで聞き込みをすることを決めた。そして当該電車の待機する鴨居駅に向かった。
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