都橋探偵事情『莫連』

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「お前は入れ込むのが悪い癖だ。いいんだよ飲むときは飲む、メリハリ付けなきゃダメっ」  中西は難しい顔した並木を無理やり連れ出した。中西は大家に電話を借りてこのまま上がることを布川に伝えた。店は野毛の鯨屋である。 「そうだ、あの名刺はパクった札入れから抜いたもんじゃないか。だから二十数枚別々なんだ」  並木がビールの泡を飛ばして言った。 「そうか、そうかもしれないな、明日片っ端から電話しよう。だけど今日は忘れろ。一回リセットすればまた新しい考えが浮かぶ。今のが証拠だ。鯨の刺身食ったから想い出したんだ。あの宿にずっといてみろ、屁しか出ないよ、だろ?」 「お前はいいなあ、だからそんなに大きく育ったんだな。俺はやっぱり交番向きだ。市民と触れ合って困ったことがあれば相談に乗れるお巡りさんがいい」  並木は既に移動を申し出ていた。三年前東京五輪の年に、大きな事件を人手不足から付き合わされた。それから始まった刑事だが人の死と直結する仕事から離れたかった。 「お巡りさんねえ」 「ああ、布川さんが課長にかけあってくれた。箱根にほぼ決まりだ」 「箱根か、暫く行ってねえなあ、決まったら遊びに行く、富士屋で芸者上げて一杯やろうぜお前の金で」  中西が溶け出して血の滴る鯨の刺身を頬張った。歯から歯ぐきから唇まで赤くして笑った。 「俺、先に帰るわ。なんか疲れた」 「だから鯨で精力つけんだよ。帰るなら勘定払ってけ」  無理やり誘われたが鯨は嫌いである。その上勘定を払わされた並木は肩を落としている。 「並木、俺が付いてるから元気出せ、何も恐いもんはない」   ガラス戸を開けると中西にエールを送られた。運が悪いのはお前のせいだと言いたかったが手を上げて店を出た。  
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