都橋探偵事情『莫連』

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「すいませんがこういう状況です」  主人が恥ずかしそうに言った。 「分かりました、ご主人お仕事は?」  首を横に振った。 「奥さん便所貸してください」  倅があれじゃ仕事どころではない。徳田は仕方なくもう一万を封筒に足した。 「これご返却いたします。領収証をお願いします」  主人は中身のチェックをせずに書いた。徳田は黙っていた。 「最後にひとつだけ、悟君は東神奈川駅で根岸線から横浜線に乗り換える客の押し屋をしていました」  押し屋とは当時国鉄が学生アルバイトなどを募集して満員電車のドアからはみ出た人を押し込む作業である。 「あの子が押し屋?アルバイトなどする子じゃありません、人違いでは」 「いや水色のセーターに刈り上げでした。背格好も合わせてご長男だと確信しています」 「それじゃやっぱり人違いですよ、悟のセーターは鼠色ですから」 「鼠色?」  隣に座っていた女が毛糸を編んでいた。その毛糸が鼠色だった。 「それじゃ水色のセーターはどうされましたか?」 「本人は手ぶらでした」 「ご主人の登山ナイフは?」 「持っていませんでした」 「どこかに捨てたのでしょうか?」 「あの通りですから詳しいことは何も言いません。ただ何かを我慢しているのか二階でばたばたしています。私もしばらく家を離れられません。家内一人では危険ですから」  
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