都橋探偵事情『莫連』

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「警察ですが少しお時間宜しいでしょうか。殺人犯を追っています」  男は素直に従った。駅長室に連れて行くと既に多田がいた。 「ご帰宅時に呼び出して申し訳ありません。一昨日この菊名駅で刺殺体が発見されました。そのことで同時刻同車両に乗車していた方にお話を伺っています」  並木が改めて礼を言った。男は革の名刺入れから二枚抜いて多田と並木に渡した。 「田中と申します。お疲れ様です。もう帰宅するだけですから時間はいくらでもあります。ただこの齢ですから帰宅が遅れると家内に要らぬ心配を掛けてしまいます。お電話をお借りしてもいいでしょうか」  田中は駅長室の電話を借りて自宅に掛けた。 「ありがとうございます。早速ですが一昨日もさっきの電車に乗っていましたか?」 「ええ、平日はあの電車です」 「車両も?」 「そうです」 「あの車両にする特別な理由はありますか?」  並木は心理的なことを聞きたかった。 「まあ、習慣と言うか、毎日が無難ですとそのパターンに安心感を覚える。変化を与えると少し不安になるような、とでも言いますか、やはり験担ぎですかね。それと名刺の通りうちは横浜支社でして同僚があの辺りに集まりますので若い者でしたら一杯付き合わせる作戦もあります」  田中は微笑んだ。 「ありがとうございます。やはり大概の人が験担ぎなんですね。するとあの車両に顔見知りの方がいますか?」 「ええ、半分ぐらいは見覚えのある方ですね、中には挨拶をする同輩もおります。如何せんあの混みようですからね、袖触れ合うどころの騒ぎじゃございません」  大手不動産会社の役職にある男だけに話し方も流暢である。
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