都橋探偵事情『莫連』

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「これをご確認いただきたい」  田中は名刺を摘まんでじっと見つめた。 「ええ、うちの者ですがどうしてこれを?」 「実は別件ですが殺害された男が持っていました。この方は過去に財布を掏られた、または落とされたことはないでしょうか?」 「部署が違いましてそこまでの付き合いはありませんが明日にでも同僚に 調べさせましょう」 「同じ会社でも顔を合わせる機会はないようですね」 「横浜支店だけでも千人おりまして、私はほとんど室から出ません、この者は営業ですからほとんど支店には顔を出さないでしょう。それにもう移動しているかもしれません」  さすが大手、一目見回せば社員の顔が見渡せる零細企業とは違う。同じビルの中にいても擦れ違うこともない環境である。 「出来れば早急にお願いしたいのですが」  営業で交換したのか、落としたのか、掏られたのか、もし後者なら届けは出してあるか知りたい。そうすれば該者との関係有無が明らかになる。捜査は進捗しないが不要な捜査がひとつ省ける。多田は並木の緻密なやり口に感心している。面倒な上に率の悪いこと、しかし確実に前に進む。だから忘れ物がない。見落としがない。多田は並木をぜひとも育てたくなった。この男ならスリ専門の刑事として活躍するだろう。  伊勢佐木町の有隣堂から出ると女から声を掛けられた。 「あんた、こないだの刑事さん」  中西に声を掛けたのは瑠璃子である。関内駅のベンチで酔っ払いを演じて財布を掏らせた。出来心を誘って逮捕した。署に連れて帰ると県警から出向している榊刑事に虐められたのを中西が慰めた。 「おう、瑠璃子ちゃんだな」 「へえ、覚えてんだね」 「そりゃそうさ、俺を誰だと思ってんだ、伊勢佐木中央署の中西だぜ」  顎をしゃくった。
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