都橋探偵事情『莫連』

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「さあ上がるよ」  このスリ集団の女元締めが目で合図した。それぞれがバラバラになりアジトに戻る。この女は湯山栄子二十九歳、広島出身である。戦後食い物につられてスリの集団に入ったのが七歳の時だった。他の孤児等と共にスリのグルとして仕込まれた。滞在先は様々でグルの一人が先に移動して手配している。ひとつの都市に滞在するのは二週間から一か月で、予め次の移動先は決めてあり専門のグルが滞在先を確保している。駅から徒歩で十分以内、雑魚寝が出来る大部屋、或いはアパートなど、一軒でなくて複数の滞在先にするときもある。グル一人一人の荷物は大きなボストンバッグ一つ、着替えがほとんどである。現地調達で足が付いては何もならない。仕事は全て現金のみである。まだカードが普及していないこの時期、札入れやバッグには現金しか入っていない。今回手配した滞在先は南武線の尻手駅から五分の二階建て木造アパートである。上下合わせて十六所帯である。来年早々に建て直しの決定をしているアパートで短期入居者しか受け付けていない。今年中に退去する二所帯以外は全て空室である。大家はこの二所帯が退去するのを待っている。出来れば来年まで待たずに建て直したい。しかしいずれも早々に出て行く気配がない、ましてや一人は生活保護世帯である。その二所帯を除いた十四所帯全てを短期で借り上げた。一カ月分は前払いである。大家とすれば棚からぼた餅、これ以上望めない臨時収入になった。  グルが一人二人とアジトに戻って来る。大きな声は控える。しっかりと教育を受けている。一部屋に二人から三人で暮らしている。上がって来た順に湯山玲子が一人で入居する部屋に今日の上りを預けに行く。 「少ないじゃないか、もう少し頑張りな、見立てが悪いんだ、派手なナリしているあんちゃんは駄目さ。いい眼鏡をかけた年寄りは間違いないよ」 「おっ、やるじゃないか、だけど無理は禁物だよ。長丁場狙ってるからね、足が付いちゃ元も子もない」 「いい金まんだね、後で番頭に捌いてもらおう。だが親の形見かもしれないねえ、明日見つけたら返して上げな」  
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