都橋探偵事情『莫連』

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「武、せんにかかったら何故すぐに知らせない、うち等は一人仕事じゃないんだよ、せんにかかったら一早くあたいか番頭さんに知らせるんだよ、スリのご法度だよ。いいねみんな。明日から仲三と武は賄に回る。仲間が二人殺されてる、警察も本気だよ」  せんにかかるとは警察から声を掛けられることである。逃げ切ったと信じていた武は正座して反省していた。女ボス湯山玲子は予定を早めて広島に戻ることを考えた。明日、番頭の亀山が現金を手にすればそのまま上がるつもりでいる。 「いいかい、明日の地面師次第でこのヤサから上がるからね、いつでも逃げ出せる準備はしとくんだよ。賄衆は不要な物から送り出すこと。あちこちの郵便局から偽名で送るんだ、いいね」  玲子は気合を入れた。  伊勢佐木町は混雑していた。辻々に派手な化粧の女が立っている。ザキの賑やかな灯と裏の福富町に繋がる路地の薄明かりの境界である。表で派ぶりの良さそうな男に声を掛ける。「ちょっと兄さん」カマキリが蛾を掴まえるように手招きする。数十回繰り返しているうちに一匹の蛾がまんまと絡まれる。 「そこの背の高いお兄さん、ソフトが似合いのお兄さんてば」  中西が手帳を出した。 「かあっ」  目を見開いて女に見せ付けた。 「なんちゃって、悪い男に捕まるな」 「おとつい来やがれ」  女が路地の中に一歩下がった。一歩下がっただけで姿は見えない。中西は署で布川と別れ、瑠璃子から聞いた毛糸屋を探していた。長者町の大通りを超えて日活会館の先の左側に常盤和洋裁材料店がある。男は飲み食いの店には目が行くが裁縫店は記憶する関係がない。中西が入店して物色していると女店主が近付いて来た。裁縫とは到底縁がなさそうな大きな男にどうやって声を掛けるか迷っている。
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