都橋探偵事情『莫連』

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「知れるとお客さん失うからね」  女店主に念を押された。 「女将さん、この近所にこういうような糸を売る店他にある?小さい店でもいいんだけど」  歩いていける距離に一軒あった。中西はその店を目指した。名画座と日劇を通り越して末吉橋を渡る。京急のガードを潜り初音町の女郎屋前を通過する。下で一杯引っ掛けた客が狭い階段を上がって行く。チョンの間本番一回三千円、時間は二回で五千円、勤め人の給料が五~六万だから高いのか安いのか満足の度合いによる。冷かして通り抜け初音町の交差点を左に曲がり前里町一丁目を右に曲がった。それらしき店はない。 「すいませんけどここいらに裁縫店はありますか?」  買い物帰りの女に訊いた。 「糸屋さんかな?」 「多分」 「その角の医院を左に曲がり二軒目、看板はないよ。小さく糸と書いてある」  中西は言われたように歩いた。古いトタン張りの家に『糸』と書いた板が打ち付けてある。建付けの狂った開き戸の隙に手を入れた。中に入ると所狭しと棚がある。奥には毛糸の玉のもの、束のものがある。 「いらっしゃい、奥さんの使いかな?」  高齢の男が眼鏡の上から中西を見ている。 「ご主人ですか、伊勢佐木中央署の中西と申します。独身です、いい子いたら紹介してください」 「警察?あんたが裁縫するの?」 「ええ、婿入り修行にね、な~んつって親父さんに聞きたいことがあるんだ」 「まあ上がれや、おい茶を入れてやれ、警察が手入れに来た」 「あいよ」  奥でミシンを踏んでる夫人が返事をした。 「お茶よりこっちか?そう言う面構えだな」 「ああ、実はそう」  茶から酒に代わる。
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