都橋探偵事情『莫連』

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「その女は初めてですか?」 「いやもう何度も来てくれてるよ、しっかりした人だと思うよ。編み物を決めてからその量を購入して行きなさる。無駄をせずに趣味を楽しんでいる」  編み物のベテラン先生の言葉には重みがある。 「どれくらいの間隔で来てますか?」 「そりゃ一定じゃないよ、マフラーもあれば手袋もある。その費やす時間によるけれどね、一月か半月か、それぐらいじゃないかな。男もんのセーターなら最低そのくらいは掛かるよ」  それじゃ張り込みには無理がある。一か月間じっとこの糸屋に張り付いているわけにはいかない。 「女将さん、その女がもし来たらそれとなく名前とか住所とか聞いておいてもらえないかな。無理に聞くと怪しまれるから、磯子のどの辺りだとか、誰に編むのかとかそんなことでいいんだ」 「おい刑事、その女が何をしたんだ?それ次第で協力のしようってもんが違って来るさ」  主人が口を挟んだ。人殺しの嫌疑だと言ったら女将は驚いてしまうだろう。それも今撚ってもらった毛糸で首を絞めたと伝えたら寝込む恐れもある。 「ある人が捜しているんですよその人を」 「ある人って誰だ?」  主人が突っ込む。黙ってりゃいいものをと中西は笑った。 「生き別れになった息子さんなんです。これ、ここだけの話」  中西は適当に誤魔化した。 「そうか、それなら協力しようじゃねえか。おめえの連絡先教えな、警察じゃなくて自宅がいいな」  去年自宅アパートに引いた電話番号を教えた。 「おやじさん、その女が来ても絶対に今の話をしちゃ駄目だよ」  中西は念を押した。 「女将さん、一杯ご馳走になったお返しにこれ貰ってもいい?」  中西は夫人が撚った毛糸を掌に掛けた。夫人は笑って頷いた。 「おい刑事、言い草がおかしかねえか」  主人が中西の言い方に引っ掛かった。
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