都橋探偵事情『莫連』

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「英二さん、飲む前に」  道子が二階から下りて来た。道子から乳の匂いがする。早く話しを済ませて英一を抱きたい。 「英一は?」 「熟睡、起こさないでねパパさん」  義母に先手を打たれた。 「お義父さん、お義母さん、今度の日曜日に道子と英一を連れ帰ります」  こんなに心臓がバクバクしたのは初めてだった。五歳の時横浜大空襲で両親を亡くしてからは教会のシスターが親代わりだった。義理とは言え両親を口にしたのはそれ以来である。 「家に入ってくるなり連れて帰りますとはどういうことかね。確かに君の子であるが道子が腹を痛めた子である。その道子を腹を痛めて産んだのが君に酌した人だ。入院前からずっと世話して無事退院した翌日にありがとうございましたの一言もなく自分の都合だけを伝えてそれではいそうですかと答えるとでも思っていたかね。私も家内にも親戚がいて一同合わせると相当数になる。その一々から多額の出産祝いをいただいている。勿論ご祝儀は全て君等の家庭に渡る。道子の退院を聞いて多くが産後の見舞いに駆け付ける。今度の日曜日には二組の知人が祝いに来てくれる。既にそう言う約束事が出来上がっている。親の事情も伺わずに君は五日後の日曜日に連れて帰ると言う。先ずは私達と道子本人の都合を聞いてからではないか。それに君のアパートで二入が過ごせる設備が整っているのかどうかも確認したい。不備な環境に娘と孫を放り出すわけにはいかない。君が我が子を思うのと同じ感情が私達にもある」  義母が頷いている。道子は徳田を見つめている。義父のもっともな価値観に対抗出来るのはなんだろう。徳田は考えた。理屈で連れ出すのは困難である。 「失礼しました。礼儀知らずを謝ります。道子から聞いていると思いますが僕は五歳の時に横浜大空襲で両親も家も失いました。孤児の僕を助けてくれたのは不良仲間です。そして山手の教会に引き取られました。偶然にも道子が英語講師として子供等に教えていた教会です。その道子を見てこの女性を一生愛し続ける、守り続けると誓いました。道子に傍にいて欲しいんです。毎日道子と英一のことが頭から離れずにいます。環境の不備はお二人にお願いします。お二人の協力無しでは僕等夫婦も英一も生きていけません。どうかうちに連れ帰ってもご両親の監視の下ご指導をお願いします」  
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