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平たいミントの味だった。
目を瞑り鼻で息をする。彼の存在を口と耳から手繰り寄せる。
私の下唇を食む彼のそれは、ひび割れていて皮剥けてもいる。
水のように動く彼の舌先が私の口内を削り取っていく。歯の裏を滑る彼の舌からは薄く歯磨き粉の味がした。唾液の粘り気に隠れた平たいミントの味は舌の温度に溶けてなくなる。それはまるで今の私たちのようで少し笑える。
彼と初めて顔を合わせたのが2時間前。私達は今ホテルにいる。
お互いアプリの登録名で呼び合い、プロフィール画像と違うところも飲み込んで固有の情報は口にしない。親にも見せたことのない部位は口にするくせに。
絡み合う口を離して距離を取ると涎が橋を作っていた。けどすぐに切れた。
「ケイちゃん、ケイちゃん、好きだよ」
一回目の時と同様に、彼は果てる直前耳元でそう呟いた。
「うん、うん」
全身を縦に揺らされながら、私は必死に抱きついていた。骨と肉と体液が砕け散って一つになることを願って。
彼と、じゃなくて、誰かと、一緒になりたい。誰でもいいとは思わないけど彼じゃなくてもいいとは思う。
彼の声を息遣いが上回ってすぐ、揺れは止まった。覆い被さる彼と私の間には距離はない。彼は懲りずに呟いた。
湿っぽく熱っぽく「好きだよ、ケイちゃん」と。
ロビーを出て彼についていくこと数分。しばらく歩いてから、彼は「また連絡するからライン教えてよ」とスマホを取り出した。
下を向いて歩いていたから、不意に顔をあげた拍子に夕陽が目に入りなんだかちょびっと涙が出てきた。
「また連絡するってことはこれで今日は終わりなんだなー」とか「チラッと見えた画面に女の子の名前いっぱいあったなー」とか「今向かってるのは駅なんだー」とか決してそんなことを考えて出てきた涙じゃない。
「ねぇ、早くスマホ」
彼は立ち止まって俯く私にそう言った。そのしゃがれ声が冷たさを強めて、私は凍えるように唇を噛む。
『何被害者ぶってんの?ウケるだけど』私に聞こえる声はよく聞き慣れた私の声。
『アンタだって同じじゃん?』『先週あったサラリーマンの方が気前がいいし、来週会うフリーターの方が顔がいいと思ってんでしょ』『アンタじゃなきゃダメな人なんてこの世にいないよ』『だってアンタだって同じじゃん?』
頬に二、三何かが落ちた。
恐る恐る顔を上げると、彼は私を見ておらず手のひらを空に向けていた。
雨粒はやがて束となり急な夕立となる。彼はスマホをしまい、数メートル先のコンビニに走った。
私は彼と逆方向に足を進める。叩きつけるような雨の中、ホテルでも駅でもない道へ進む。
歩いてしばらく、夕立は止まない。前から歩いてくる傘をさした親子は奇怪な目で私を見ていた。
息子さんが私をじっと見ていて、お母さんが息子に見るなと注意していた。すれ違うとき、私はあの親子からみて透明人間になっていた。
私は透明になりたいわけではない。目を逸らして欲しいわけでも消えたいわけでもない。
消えて無くなりたいんじゃなくて溶けて一緒になりたいだけ。
私を背負って生きていくのが私だけだなんて耐えられない。
私を1人にしないで誰か。
私と一緒になろうよ誰か。
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