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プロローグ
雨が降っている。
午後から降り続ける雨は止むことなくゆっくりと道路を濡らし続けている。
雨と始発電車を待つこの時間が重なる日はすれ違う人間もまばらだが、終電から一時間程度しか経っていないこの時間ではまだ酔いの回った集団やカップルも目立っている。
傘に付いた雫を払いながらスマホの地図アプリを確認する。 先はまだ長く、約二時間という数字を示している。
雨が降り続くどんより重い空気に当てられたのか、思考もいつもより暗くなっている気がしてくる。
今日はクライアントとの飲み会で終電を逃し、歩きながらと思いながら探したタクシーも捕まらない。
先週は他の社員とクライアントとの間に起ったトラブル処理のため社員総出でカバーすることになり、終電ギリギリまで働く日々を過ごした。
プライベートでは、半年以上かけて別れ話を終結させた元彼女から、知人経由で一年ぶりに連絡が来ていた。
(26年、割と真面目に生きてきたつもりだったんだけどな)
暗い思考を払いのけようと視線を前に戻すと、先ほどまではまばらにいた通行人の数が一気に減っている気がする。
ふうと一息ついて、諦めた気持ちで重くなっていた足取りに再度力を入れようとしたとき、街灯も届きにくいような細い路地に何かが揺れたのを感じた。
いくら都会の中心と言っても野良猫やネズミの類がいないわけではない。
路地裏と言えばそうした彼らの小さな住みかとなっていてもおかしくないため、普段なら小さな揺らぎなど気に留めない。
しかしその”揺らぎ”は今まで経験したサイズより遥かに大きく感じ俺は足を止めた。
相当な疲労が溜まっていたのか、自分でも知らない奥深くに潜む好奇心が顔を出してしまったのかは分からないが、一度足を止めてしまえば確認せずにはいられず、警戒心は忘れないようゆっくり近づきながら暗がりに目を凝らす。
心臓が早鐘を打っている。警鐘をならす理性から目を背けて足を進める。感じていた通り”揺らぎ”は明らかに大きい。
さらに気配に近づき目が慣れてきた頃、その正体が人間の女性なのだと分かった。
その人物は傘も差さずに地面に体育座りをして小さくなっていた。
猫やネズミよりは圧倒的に大きいが、先ほどまで感じていた”揺らぎ”からは想像もつかないほど小さく見える女性。
見た目は小さく、少女のような儚さを湛えていたが恐らく成人はしているだろう。
その異様さに一瞬たじろいてしまったが、改めて状況を確認しようとさらに近づくと彼女もこちらに気づき視線をあげた。
目線があった瞬間、バチっという音がした、ような気した。
俺はその場に縛り付けられたように動けなくなってしまったが、そんな俺とは対照的に、彼女は何の感情の変化も映さない目で俺を見つめ続ける。
このとき目を逸らして走り去ればよかったのだが、なぜかできなかった。
彼女から漂う儚くて繊細な空気は、不思議と目が合った品減が彼女から目を逸らすことを拒否させ、その場の時を止められたかのような錯覚に陥らされる。
自分の感覚に動揺していると、彼女はへにゃっという効果音がつきそうな顔で笑いながら声をかけてきた。
「あなたが新しいご主人様?」
逃げたほうがいいと理性は変わらず胸の奥底で叫んでいる。鼓動がどんとん早くなるのがやけにはっきり伝わってくる。
それでも未知の感覚に囚われた俺の足は止まることなく、その女性の元へ一歩ずつ確実に進むのだった。
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