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1章
「『ご主人様』……?」
聴き慣れない単語に思わず怪訝な顔で彼女を見下ろすが、まったく意に介した様子もなく、軽く首を捻って、
「そうだよぉ、ご主人様。ご主人様はね、わたしに寝るところをくれるの。代わりにわたしはご主人様のお願いぜーんぶ聞くよ」
少し間延びしたような話し方に気が抜ける。でも話しているのは気を抜けるような内容ではなさそうだ。
俺はその場にしゃがんで目線を合わせ、ひとまず雨に打たれ続けている彼女に自分の傘を差し出した。
「どういうこと?」
「そのままの意味だよぉ。ご主人様がいないとわたし何もできないんだって。だからこうして拾われるの待ってるんだワン」
どこか他人事のように話す彼女の言葉は、彼女の自身の言葉ではないのだろうか。
語尾に鳴きまねを入れているあたりに冗談なのか本気なのか分からず探ろうとするものの、彼女の表情から感情は読み取れない。
どっちかというと猫みたいな印象だけどな、なんて考えながら俺は1つ疑問を口にする。
「……俺がご主人様じゃなかったらこのあとどうすんの?」
時刻は午前2時を回ったところだ。降り続ける雨は一晩止まないだろう。
「このままここにいて、新しいご主人様を待つだけぇ。」
ふふっと視線を軽く逸らして笑いながら彼女は言った。
俺は一度下を向き思案する。
本来ならこんな危険なことは絶対しない。物盗りの可能性は?仲間がいて殺されたら?考えうる限りの可能性を思案する。
だけどなぜか拾ったあとの対応も同時に考えている自分もいることは確かだった。
(このままじゃ後味悪いじゃねーか)
俺は誰にも聞こえない言い訳をしたあと、心の中で軽く舌打ちして彼女に向き直った。
その様子に気づいたのか、彼女もゆっくりこちらを向き目が合った。
「わかった、今日は俺が主人になる。一緒に来い」
そう言って手を差し出す。
彼女はまたへにゃっと笑い、俺の手を取った。
「よろしくお願いします、ご主人様」
差し伸べたての引き際がわからず、手を繋いだまま立ち上がり歩道へ戻ったタイミングで、今日あれだけ捕まらなかった空車のタクシーが走ってきた。
俺は静かに手を挙げタクシーを止め、彼女を先に乗せる。住所を告げ、ゆっくり走り出したタクシーの中で俺はふと隣に座る彼女のほうを見た。
窓に映る彼女は先ほどの印象とは違い、なぜかとても幼く、少し目を離せば消えてしまいそうだった。
なにか見てはいけないものを見た気がしてすぐに視線を反対に向けた俺は再び心の中で言い訳を始める。
こんなことしたのは初めてだから緊張するのは当然だ、と無駄に言い聞かせながら素早く移り変わる窓の外の景色を見つめ続けた。
走り出してから10分ほど経った頃、隣から小さく鼻歌が聴こえてきた。
よく耳を澄ますとひどく懐かしい童謡だったけれど、少しずつ音がズレている。
わざとなのか本気なのかわからないが、彼女の持つ雰囲気とのギャップに、ふっと笑ってしまった。
すると彼女は軽くこちらを振り返り、今度はふわっと笑った。そしてまたすぐ窓の外へ視線を移すと再び口ずさみ始めた。
少しだけ緊張が緩んだ気がする。
なんとも不安定で危険な状態にいるという自覚はあったが、安堵感にも似た感情が同居しているから不思議だ。
俺は、彼女の少し低く甘さを孕んだ声を遠くに聴きながら、心地よい揺れに身を委ねた。
*
タクシー運転手の声で目を覚ました。どうやら眠ってしまっていたらしい。時間を確認すると乗車して十五分程経過していた。
料金を払おうとまだ少しぼんやりした頭で鞄を探ろうとしたとき、手の甲に温もりを感じてふと視線を向けると、自分の手に彼女の手が重ねられていた。
驚きに動揺し思わず彼女の顔を思いきり見やったが、彼女は意に介した様子もなく窓の外を見続けている。
到着したのに相手を起こさず窓の外を見続けながら、気づかない間に手を握ってくる。
出会って三十分程しか経っていないのに、理解できない行動が多すぎて頭が重くなる。
財布からカードを取り出し支払いを済ませ、彼女の手を取りタクシーから降りて歩き出す。その手はじっとりと嫌な汗で濡れていた。
オートロックのない簡素な造りのエントランスを抜けてエレベーターへ向かう。
四人程で満員になりそうな小さな箱の中で俺たちは微妙な距離をとりながら目標階に到着するのを待つ。
エレベーターを降り、一番奥にある自分の部屋の鍵を開けるため鍵を差し込む。
自分の部屋の鍵のはずなのに、緊張して少し手が震えた。
この扉を開けてしまえば、後戻りはできない。どうなっても自分の責任だし咎められるのは俺だ。
そこまで分かっていて覚悟を決めたつもりでも、冷や汗が背中を伝っているのがわかる。
ふうと一つ大きく息を吐いてからドアノブを掴む。
想像以上に強く握ってしまったドアノブは、俺を最後に引き留めるかのようにいつもより重く感じた。
覚悟を決めて玄関へ足を踏み入れる。
少し乱暴に靴を脱いで彼女より先に部屋へ入るが、後ろからついてきている気配は感じられない。
振り返ると玄関で立ち往生し少し戸惑っている様子だ。
出会いの瞬間は躊躇する様子もなく話していたのに急にどうしたのか、歩いた道を引き返す。
「どうした?入らないのか?濡れたままじゃ風邪引くだろうし早く来な」
その言葉を聞いた彼女は顔を上げてふにゃっと笑い、お邪魔しますと小さくつぶやき部屋へと入ってきた。
小さな違和感を感じたが、これまでの展開を考えるとあまりにも些細なことで特に気に留めずそのまま浴室へ案内した。
このときも自分からは入ろうとせず俺の表情を窺っていたため、先に入りな、と声をかけると玄関と同じように笑って浴室へ向かっていった。
一度退室し、シャワーの音が聞こえだしてからタオルと着替えを用意する。
ふと、タオルや部屋着は貸せるが他に女性用の物は何もないことに気づく。
これまでの彼女は何度か家に来たことはあったが、私物は置いていなかった。
何度ケンカになったかわからないな、と思い出しながら彼女が持ってきた荷物に目を向ける。
一つだけ持っていたカバンは小さく、A4のファイルがギリギリ入るサイズだ。
勝手に覗くことはできないので、着替えやタオルの近くにカバンを置き、彼女が上がってくるまでリビングで待つことにした。
十五分程経った頃、浴室の扉が開く音が聞こえてきた。
なんとなく落ち着かない俺が付けていたテレビの音がひどく小さく聞こえ、浴室から聞こえる音に耳を立てているような気持ちになり申し訳ない。
落ち着け、と自分に言い聞かせながら彼女が部屋に来るのを待った。
するとすぐにドアが開かれたのだが、それ以上入ってくる気配はない。
視線を向けずらかった俺だが、遠慮がちにそちらを見ると、驚きに思わず立ち上がってしまった。
髪から滴る雫に止まる様子はなく、彼女は使っていないであろうタオルを手に持ったまま、裸体を晒した状態で立っている。
同じ人間とは思えないくらい白くて細く、繊細な体を彼女は何の抵抗も見せぬまま晒している。
驚きのあまり声も出せなかった俺に彼女の方が先に声を上げた。
「ここからどうすればいい、ですか?なにが好き?」
「は?」
俺の顔はひどくマヌケだったに違いない。しかし彼女は真剣に、それでいて瞳には暗い影が見えた気がした。
「いや、なにがって.......」
状況がわからず混乱しながらも何とか声を発する。
「言ったでしょ?わたしなにも持ってないから。こういうことしかできないの」
"こういうこと"がなにを指す言葉なのか、混乱した頭でなんとか理解する。
彼女は置いてもらう代わりに、自分のすべてで応じようとしているのだ。
物語のような、他人事と思っていたそんな出来事が今目の前で起こっている。
回らない頭をなんとか稼働し、彼女に向かって言った。
「なにが好きって?俺のしたいようにしていいの?」
「うん」
彼女は事も無げに笑っている。彼女の表情と行動に乖離がありすぎて俺の頭はさらに混乱する。
それでも俺が選ぶ選択肢は一つしかない。
「……じゃあ服着て、髪乾かして。そんで早く寝よう。俺は明日休みだから詳しい話は明日な」
「え、それだけ……?」
今日会ってから1番の動揺を彼女が見せた。本当にどうしたらいいのかわからないというような顔だ。
俺は彼女に近づき、タオルを受け取って身体を覆ってから肩を掴みくるっと半回転させ、彼女の身体を浴室へ続く廊下へ向けた。
「”それだけ”、だ。そんなつもりなかった。だから何かしてくれるなら早く温かい格好して髪乾かしてくれ。見てる方が寒い」
ははっと軽く笑ってみたが彼女は俯いたままだ。気づかない振りをして脱衣所に連れていく。
着替えた後も自分からは動こうとしない彼女の髪をドライヤーで乾かし、リビングへ戻り、ソファーで待ってほしいと伝え今度は俺が風呂へ向かった。
シャワーを浴びながら数時間の出来事を反芻する。
予測できない彼女の行動に頭は混乱したままだが、ひとまず今は危害を加えられそうな気配はない。
これからどうしていこうか、彼女のことも知らず、混乱した頭で考えてもより思考が散らばるだけだ。
今は頭の少し上から流れる心地よい温度の水の流れに身を任せた。
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