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Episode 02
「・・・・・・っ!」
闇の中、イヴは不意に目を覚ました。毛布を跳ね除け、長い金髪を振り乱して飛び起き、肩を上下させて荒々しい呼吸を繰り返す。
「今の、は」
掠れた声で呟く。目覚める直前まで見ていた夢の残像が、心臓を、喉元を締め上げて止まない。
暗い寝室で、無我夢中で息を吸う。細い喉では取り込める空気の量に限りがある。苛立たしさに駆られ、もっと呼吸を楽にしたくて首を指で引っ掻く。
「……は、っ」
短く切り揃えた爪が皮膚に食い込み、その痛みで我に返った。慌てて手を離す。
傷が残ってしまったら。きっとロックは己が傷付いたかの様に悲しみ、そして己を責めるだろう。傍にいながら、傷を負わせてしまったと。
「ロッ、ク」
大切な、守るべき存在を思い出した事で、得体の知れない夢に捕らわれて暴れていた心臓が徐々に落ち着く。
ロックの名前を唇に乗せると、夢の残滓が薄れていった。呼吸はだいぶ楽になったが、首を締め上げる圧迫感は残っている。
「あれは、一体」
脳裏に甦りそうになって、首を強く左右に振った。あれは悪い夢、せっかく消えつつあるのだから、無理に思い出さなくても良い。
そう己に言い聞かせ、意識を切り替えようと室内に視線を巡らせる。違和感を覚えて紅い瞳を瞬かせ、次いで肩を落とす。
「あぁ、そうでしたね」
力無く呟いて、シーツに手を置く。温もりの無い布の感触が、無性に寂しかった。
いつもなら、夜はロックのベッドで一緒に眠る。しかし今夜、イヴは一人で、自分のベッドで眠っていた。
昼間、水浴びをして体を冷やしたのが悪かったのか、ロックは夕食もほとんど食べずに自分の寝室へ引き上げてしまった。彼の眠りを妨げたくなくて、イヴも今宵は自分のベッドで眠っていたのだ。
「ロック」
足を引き寄せて膝を抱え、己の体を軽く抱き締める。
子供用のベッドに二人で眠るからなのか、ロックはイヴに抱き付いて胸元に顔を埋める事が多い。十七歳の少女としては少々恥ずかしかったりするのだが、眠っている時だけでもロックの苦悩を和らげてあげたいし、他に見ている者もいないから拒絶はしない。むしろ体温と鼓動が伝わってくると、イヴも心が安らぐ。
ただ、寝ぼけているロックは時折、イヴの胸に触れる事がある。彼の小さな指先が薄い寝間着越しに食い込んでくると、うっかりはしたない声を上げてしまいそうになる。
相手は子供ですよ!と自分に言い聞かせてみても、日々交わされる濃厚な口付けやスキンシップが鮮明に蘇ってしまい、一人で頬を上気させて悶々と過ごす夜も少なくなかったりする。
更にその影響なのか、最近イヴの胸が質量を増しつつある気がするのが悩みと言えば悩みだ。
一緒に眠っている時は対処に困るのに、いざこうして一人になると彼の温もりが恋しくなってたまらない。
己の身勝手さに辟易するが、今は自分の体温だけではどうしても足りなくて。
「ちょっとだけ、様子を確認するだけですから」
誰へともなく言い訳をして寝台から抜け出した時、外の空気がざわめいた。
風、ではない。ぴりぴり肌を刺す不穏な気配は殺気か。
頭に生えた猫耳を、ぴん、と立てて、人間では捉えられない小さな音も聞き逃さぬよう、聴覚を研ぎ澄ませる。瞬間。
がしゃんっ!
庭に面した大きなガラス窓を突き破って、黒い塊が飛び込んで来た。
イヴは素早く視線を走らせる。
ガラスの破片にまみれた物体の正体はカラスだった。カラスは二、三度、羽をばたつかせた後、動きを止めた。
イヴ達が住むこの家は、外観こそ山小屋風のこぢんまりとした造りだが、建物はロックの魔力で編まれた結界に覆われ、あらゆる外敵から護られている。 その守りは強固で、今まで嵐に襲われても、猪が突進して来てもびくともした事がない。
その、堅牢なはずの建物の窓が破られた。
そもそも森に住む生き物は、この建物に自発的には近付かない。野生生物の本能で、ロックのチカラには敵わないと察知し、忌避するからだ。
つまりこれは、自然現象ではない。
月明かりが揺らめく寝室内で、イヴは紅い瞳で窓を見据える。吹き込む夜風に煽られて、薄い寝間着の裾が揺れて長い金髪が躍った。
イヴが睨む先、割れたガラスが外から突きこまれた杖で叩き壊された。
「こんな所に隠れていたのか」
「さすが猫だナ、隠れるのが上手い奴だゼ」
割り広げたガラス窓をくぐって、二人の男が室内に踏み込んだ。
一人は漆黒の長衣を纏った男。フードで顔が隠されて年齢は分からないが、杖を握る指が節くれだっているところから推測するに高齢だろう。
もう一人は長剣を携えた大男。剥き出しの腕は筋肉質だが傷だらけで、口元には下卑た笑みを浮かべている。粗暴さを隠さない態度は、剣士と言うより山賊に近い。
そして、イヴの嗅覚は嗅ぎつけていた。二人に薄っすらまとわりつく、血の臭いを。
「お前の気配を追わせた使い魔がここへ飛び込んだ時は驚いた。これ程までに強力で緻密な結界を見たのは初めてだ」
頭上へ視線を巡らせ、フードの男は感嘆の声を漏らす。ロックが施した結界が、男には視認出来ているらしい。
それはつまり、この男も魔術に通じる者なのだと示している。
別室で眠るロックの存在を気取られてはならない。イヴは敢えて自分に注意が向くよう男達の前へ進み出た。
「どうやって、結界を破った?」
「手を出しあぐねていたが、何故か夜になって急に綻びが現れてな」
「オレの剣で一突きしたら簡単に破れちまったサ。運はオレ達に味方してる、ってワケだ」
二人の口振りとタイミングから、どうやらロックが体調を崩した影響で結界が弱体化したらしいと、イヴは察した。
彼らの言い分を信じるなら、他にも侵入者が現れる可能性がある。ならば一刻も早く男達を排除し、ロックが回復して結界が元通りになるまでの間、イヴが外敵を追い払わなければ。
警戒心も隠しもせず身構えるイヴに、フードの男は苛立たしげに杖を床へ打ちつけた。
「幾つか『依頼』を断らざるを得なかったのは惜しいが・・・・・・まぁ良い。そのツケはお前に支払ってもらおうか」
高圧的に言い放ち、イヴの方へ歩み寄る。イヴは身を捻ってベッドに駆け寄り、枕の下に隠してあった短剣を抜き放った。
刃を構えるイヴを、ローブの男は不愉快さを隠さない声で𠮟責した。
「何だその反抗的な態度は。お前を育てた恩人の顔を忘れたか?」
「恩人・・・・・・?」
「親に捨てられ、山中で死にかけていたお前を拾って育ててやったのは誰だと思っている?」
尊大な物言いに、イヴは眉をひそめた。
自分はずっとロックと二人、この森で生きて来た。
一緒に食事を楽しんで、一緒に眠りに落ちて。
寒い夜は肌をくっ付けて体温を分け合って、暑い昼は衣服を脱ぎ捨てて水浴びをして。
笑って、ちょっと怒って。抱き締めて、抱き締められて。
脳裏を占めるのは、愛おしくかけがえのない二人の、二人だけの時間。
だから男の言葉は全て嘘。耳を貸してはいけない。
「これでも思い出せないとシラを切る気か?」
男は被っていたフードを跳ね除けた。夜の闇の中、イヴの猫目は晒されたその顔をしっかり捉える。
六十代らしき男の髪は真っ白。瞳は闇色。
凡人には持ち得ない鋭い眼差しと、老いてなお隙を窺わせない身の構え方が、男が只人ではないと雄弁に物語っている。
「う、ぁ・・・・・・?」
薄く開いたイヴの唇から、呻きにも満たない声が漏れた。知らないはずのその顔は、しかし何故かイヴの記憶を刺激して止まない。
知らない!
知らない!
否・・・・・・知って、いる?
そんな馬鹿な。
矛盾する記憶と同時に、沸き上がる感情があった。
怖い。
やめて。
……殺される!
何故かは分からないけれど、自分はこの男達をひどく恐れている。
それは記憶にない経験から来る怯えだった。歯の根が合わない程にがちがち鳴り、見開いた目から涙が溢れる。
震えるイヴを、大男の剣が襲う。反射的に防御の構えを取ったイヴの短剣が弾き飛ばされた。
大男が荒っぽい動作で剣を払うと、イヴの金髪がひと房、無残に切り落とされた。露わになった彼女の首を検分して、大男は唇を歪める。
「オイ、あの首輪はそう簡単に外せないよう作られていたんじゃなかったのカ?」
「そのはずだが……まぁ良い。二度と逃げ出さないよう、今度はもっと強力な術を施した首輪を着け直してやろう。飼い猫に相応しい首輪を、な」
「……させ、るかぁッ!」
イヴは震える足に力を込めて床を蹴り、猛然と男達へ突っ込んだ。限界まで口を開けて鋭い歯を剥き出しにする。
狙うは首。
短剣を奪われてしまっても、イヴにはまだ猫さながらの鋭い歯と爪がある。
持ち前の敏捷さをもってすれば、頸動脈を嚙み千切れる!
しかし。
「っ?」
ローブの男が呪文らしきものを唱えて杖をかざした途端、イヴの体から自由が奪われた。勢いを殺せないまま無様に床へ突っ込んで転がる。
見えない力で容赦なく締め上げらた体が軋む。悲鳴を上げようにも唇は硬直したまま、喉から声を発する事も叶わない。
「先程、別の使い魔を飛ばしてここの位置を知らせた。間もなく加勢が来る」
「ケモノの耳が生えたバケモノが、人間に混じって生きていける訳でもなし。 無駄な抵抗は止めて、大人しく組織に飼われるんだナ」
術で拘束されて動けないイヴに、大男が指の関節をこれ見よがしに鳴らしながら近付く。殴って気絶させるつもりか、いたぶって楽しむつもりか。
指一本、せめて口だけでも動かせないかとイヴは足掻く。ここで自分が倒れてしまったら、ロックを守れなくなってしまう!
焦燥が頂点に達した、その時。
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