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Episode 01
ひゅッ。
風を切る鋭い音と共に、白刃が木々の間を垂直に貫く。刃が落ちた先で草むらが不自然に動き、獣の悲鳴じみた鳴き声が上がった。
「さて、と」
夕日が射し込む森の中、木の上から少女の声が降る。
夕焼けを弾いて輝く葉が揺れ、現れた人影が太い枝から地上を見下ろす。ひとつ頷いた後、躊躇いなく枝から飛び降りた。まとう簡素な衣服と長い金髪が風をはらんではためく。
自分の身長の三倍以上の高さから身を躍らせた少女・イヴは、肉食の獣さながらの軽やかな身のこなしで着地した。乱れた金髪を背後へ払い、茂みをかき分けて満足そうに微笑む。
「狙い通りですね」
足首まで隠れる長いスカートを穿いたイヴの足元には、一匹の野ウサギが横たわっていた。薄茶の毛並みを血の色に染めた野ウサギの首には、一本の短剣が突き刺さっている。既に息はない。
イヴは短剣を一息に引き抜いた。慣れた手つきで野ウサギを枝に括り付け、逆さ吊りにして血抜き作業に取り掛かる。
可愛らしい野生動物に対して残酷な行為にも思えるが、人間が生きていく為には動物の肉は欠かせない。
勿論、狩るのは必要な時に必要な分だけ。過剰な殺生は森の生き物達の生態系を崩し、巡り巡って自分達に跳ね返る。
生命は有限なのだから。
そして狩ったからには肉だけでなく骨や毛皮に至るまで余すところなく使い尽くす、それが命を頂く上での礼儀だとイヴは考えていた。
ともあれ、血抜きが完了すれば肉料理が出来る。
「最近は野菜中心の食事が続いていたから、きっと彼も喜んでくれるでしょう」
脳裏に浮かんだ面影が喜ぶ様を想像して、自然と笑みが零れる。
上機嫌で短剣を振って野ウサギの血を払い落としたイヴは、ぴくり、と耳を立てて動きを止めた。
顔の両側についている人間の耳ではなく、頭に生えている茶色い猫の耳を。
紅い猫目を剣呑に細め、周囲の気配を窺う。傾きかけた夕日と、うっそうとした森の中を渡る冷たい風。獣達の息遣いと唸り声。更には。
木の陰から、一つの影が飛び出した。猛然と突進して来る小柄な生き物に、イヴは短剣を構えて迎え討つ体勢を取る。
が、迫る相手の顔を認めて、その動きに急停止をかけた。
「イヴっ!」
イヴが警戒を解いて短剣を引くと同時に、相手は彼女の胴体に体当たりした。
飛び込んで来た少年は、イヴの胸元くらいの背丈しかない。体よりもかなり大きい上衣を着ているせいで、服から手足が生えたみたいなシルエットになってしまっている。
少年を抱き留めて頭を撫でたイヴは、金色の眉を顰めた。少年の黒々と濡れた前髪を掻き上げ、額に手を当てる。
「ロック、水浴びをしていたのですか?」
「うん、ちょっと“調整”をしたくて」
ロックと呼ばれた少年は、深い紫色の瞳でイヴを見上げた。何でもない事みたいな口調で言われて、イヴの表情が曇る。
「“調整”が必要なほど、バランスが崩れているのですか?」
一見、十二歳の少年にしか見えないロックだが、彼は普通の人間ではない。
幼いその身には不釣り合いなほど強大な魔力を宿した、不世出の魔術師なのだ。
本来、子供が持つものではないチカラは、時としてロックの肉体を、ココロを、蝕んですり潰そうと牙を剥くのだという。
だから、チカラを押さえ込んで人間としての自己を取り戻す為、ロックは時折、森の奥の泉に長時間浸かって精神統一をはかる事があった。
「もう大丈夫だよ。だから心配しないで?」
ロックが抱える辛さを、イヴは分かち合えない。そんな葛藤が表情に出ていたのか、ロックは敢えて明るく振る舞って見せる。
守るべき対象である五歳年下の少年に気を遣わせてしまった事を反省しながら、イヴは片膝をついた。ロックに目線を合わせ、わざと少し怒った表情を作る。
「ちゃんと拭かないと、風邪を引きますよ?」
「平気だよ・・・・・・っしゅん!」
「ほら!」
ロックの首に掛かっていたタオルを掴み取り、少し乱雑に黒髪を拭く。大人しくされるがままになっていたロックは、ふとイヴの背後に目を遣った。吊された野ウサギを認めて声を弾ませる。
「凄いねイヴ!」
「・・・・・・味付けには、あまり期待しないで下さいね?」
「どうして?イヴが作ってくれるなら、何でも美味しいよ?」
ロックはそう言ってくれるが、イヴの表情は晴れない。
短剣一本で獲物を仕留め、肉を骨から綺麗に削いで切り分けるのは得意だが、調味料やハーブ類を調合して美味しく味付けをするスキルには残念ながら恵まれていない。
いつも『不味くはないが、絶賛する程に美味しいとは言い難い』微妙な味になってしまう。
だからいっそ、味付けをせず素材のままを堪能して貰った方が良いのでは?と思う事もしばしばある。
こうして慕ってくれる少年にそんな雑な食事を提供したくないので、苦手なりに努力はしているのだが、料理の腕前は一向に上達しない。
自己嫌悪に肩を落とすイヴのこめかみに、つきん、と痛みが走ったのはその時だった。
「?」
そう言えば、ロックと二人で暮らすこの森で、自分はいつ、どうやって刃物の扱いを習得したのだろうか?
ロックはまだ幼い。だから年長の自分が、生きていく為に自己流で身に着けたのだろうか?
「イヴ?」
名を呼ばれても、己の疑問に捕らわれたイヴは気付かない。
無意識のうちに、喉へ掌を押し当てていた。
イヴの白い喉元には、首をぐるりと一周する痣があった。
生まれつきなのか後天的についたのかは分からない。痛みもないので日頃は全く気にならないその痣が、今は妙に気になる。
そこには何も存在しないのに、何かが存在していたはず、存在していなければおかしいと言う強迫観念に駆られ、懸命に指でまさぐる。
そんなイヴに、ロックの手が伸びる。イヴの頬を挟み込んで強引に視線を合わせられた。
いつ見ても惚れ惚れする、どんな宝石よりもなお輝かしいロックの瞳。その瞳の奥に揺らめく宵闇色に見詰められて、イヴの思考がぱちりと弾けた。脳裏に記憶が浮き上がる。
あぁ、そうだ。
時折、この森を訪れる行商人がいて、自分はその行商人から短剣を買った。その際に簡単な手ほどきを受け、以降は自己流で鍛錬を積み重ねて今に至るのだ。
ロックの瞳に見詰められているうちに、欠けた空白部分を埋める様に次々と記憶が現れる。
安堵の息を吐くと共に肩を落とす。つい数年前の出来事を思い出せなくなってしまうとは・・・・・・まだ十七歳だというのに、ちょっとショックを隠せない。
落胆するイヴの唇に、ロックの吐息が掛かった。イヴが我に返るより早く、冷たく柔らかなロックの唇が重なる。
最初は軽く掠めるだけ。
二度目は少し長く。
三度目は重なる唇の隙間から滑る舌が差し入れられた。侵入したロックの舌が執拗にイヴを追って絡みつき、互いの唾液が混ぜ合わされる。
舌先から全身へ伝播するくすぐったさとじれったさに、イヴの腰が揺れる。それは体に燻る快感から逃れたいからなのか、その先をねだっているからなのか。
頬を包んでいたロックの右手が、イヴの金髪を掻き上げる。現れた耳たぶをゆるりと撫でられて、イヴはぴくりと体を跳ねさせた。
その反応に気を良くしたのか、ロックは更に手を移動させてイヴの猫耳に触れた。子供の悪戯にも、オトコの愛撫にも似た指の動きが心地良くて、イヴの意識が蕩ける。
それで満足したらしく、ようやくロックの体が離れた。唾液で淫靡にぬめる唇を見せつける様に舐め、紫眼をうっとり細める。
「ほら、美味しい」
「・・・・・・もう」
肩で荒い息をついたイヴは耳先まで赤く染めて俯き、ゆるく握った拳でロックの胸を叩く。
それが不服だったらしいロックは、子供じみた仕草で頬を膨らませる。
「信じてくれないの?それなら、信じてくれるまで続けるよ?」
「ちょ・・・・・・っ!」
抗議の声は、ロックの唇で封じられた。
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