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すぐそこ、というのは田舎では数キロ以内を示す。マモルは知っていたはずのことを思い出さされ、バス停から歩いて十五分ほどの駐在所へ行った。おそらくマモルが万全の状態なら十分もかからなかったはずだが、体力も落ちていたので時間がかかった。
そこで簡単な手当を受け、それから警察官夫人に食事ももらった。久々のバランスの取れた食事に胃が驚いたのか腹が痛くなり、休んでいけと言われて少し横になったらまた眠ってしまったようだった。
起きると外が暗く、マモルは本当に驚いた。ちょっと横になっただけのつもりが、毛布までかけられ、本格的に眠ってしまっていたらしい。体を起こすと、座卓で宿題をしていた小学生がニッと笑った。「ママー、起きたよ!」
マモルは毛布を畳んで立ち上がった。リュックを探して見回すと、それは部屋の隅に置いてあった。
もう夜だから泊まっていけと言われ、マモルも多少は抵抗したが、警察官の村上に住所を聞かれて言葉に窮し、しかも電車ももうないから駅には送っていかないと言われて諦めた。それが本当かどうかは、もうどうでも良かった。切羽詰まった暮らしが続いていたので、金もないのに食事をもらえ、寝床も用意してもらえるのは最高に幸せだった。しかも温かい風呂まで使わせてもらい、服も借りた。マモルは都市部では公園の片隅でちょっと寝るだけでも、警察官にゴミみたいに追い払われると言ったら、村上は大げさだと笑っていた。いや、本当なんだとマモルは思ったが、警官を誇りに思っている村上の気持ちを考えて黙っておいた。村上はここじゃ放っておいたら村の連中が集まって騒ぎになるだけだからと言った。それはそうかもしれなかった。
「汚れててわかんなかったけど、意外と若いんだな」
風呂上がりに村上が言って、マモルはペコリと頭を下げた。新品の下着に、村上に借りたTシャツとジャージのパンツは体になじまず違和感があった。それでも破れた服よりはマシで、マモルは久々にヒゲも剃らせてもらってすっきりした。そんな無精髭もあって年齢不詳になっていたらしい。
居間では村上の小さな娘が端末を見て歌いながらダンスを踊っていた。夫人はそれを見ながらやってきて、さっきまで食卓だった座卓にさくらんぼの皿を置いた。この辺りでの特産らしかった。
「二十五なら仕事なんていくらでもあるだろう」
村上はマモルの年を聞いて驚くように言った。
「いや、俺は学歴もないんで、全然ダメなんです。都内じゃ大卒の店員さんとかザラにいるし、俺らに余ってんのは、あんまり人がやりたくない仕事が多いです」
マモルは駆除士のときでさえ、さくらんぼなんて食べなかったなと思いながら、促されて一つ口に入れた。こんなのは金持ちが食べるものだと思っていた。
「それでもなぁ…こっちなら仕事はいっぱいあるのに。もう、ここに住んでしまえばいいんじゃないか? 若手は喉から手がでるほどほしい」
村上はビール片手に枝豆をつまみながら言った。マモルもビールを勧められ、一缶だけもらう。
「そうですね」マモルは苦笑いした。「嬉しいですけど…」
「無茶な仕事してると体を壊すぞ。都会に憧れる気持ちはわかるけど、そろそろちゃんとした仕事に就いた方がいい。二十五でバイトばっかりしてても、何のキャリアにもならないだろう。学歴がないなら大学に行き直すのも考えてみるといい。別に年齢制限があるわけじゃなし。ご両親は? 心配してるんじゃないか?」
マモルは頷いた。村上の善意はありがたい。
「親は大丈夫です。学校も…俺は高校も行ってないんで、やり直しは…難しいかな」
「家出か何かしてるのか?」
村上の言葉に、夫人も少し心配そうな目を向けた。それでマモルは慌てて首を振る。
「いえ、そういうのじゃないです。一応、十五から仕事してて。最近、辞めただけなんです。近いうちに、ちゃんとした仕事には就くつもりで」
「どんな? 前は何をしてたんだ?」
「えっと…」マモルは逡巡した。「公務員です」
「十五で?」
「あ…そうです。公務員というか、委託職員みたいなやつです」
村上夫妻は顔を見合わせて考えた。聞いたこともない、という顔だ。マモルがでまかせを言っているのではないかという疑いも顔に浮かべる。
マモルはどうしようか迷った。ここまで良くしてもらって、誤魔化すのも失礼な気がした。
「駆除士を」マモルはあまり気に留められないようにあっさりと言った。「してて」
「ああ」村上は合点がいったという顔でマモルを見た。駆除士は資格を持っていて、ICCの採用試験に受かれば十五から採用される。実際に十五での採用例はマモル以外に出ていないが、それでも原則は義務教育後なら誰にでも門戸は開かれている。
「ちょっと…いろいろあって、悩んでて…ミスもあって」
「ニュースで見たわ」
村上夫人が言って、マモルは彼女を見た。アルトの手を離した瞬間の感覚が蘇り、マモルは大きく息をついた。ダメだ。いつまでも引きずっている。
「切り替えるつもりだったんですけど、ミスが重なってしまって…うまくいかなくて」
今の仕事もうまくいっているわけじゃない。このままハンターにも接触できないまま時間だけが過ぎていくと、どうせ一年後には駆除士資格は剥奪されてしまう。
「駆除士には戻らないの?」
「わからないです」マモルは正直に言った。もう今では自分が駆除士としてやっていけるかもわからなくなってきている。
「わぁ、何だ、エース駆除士じゃないか」
検索した村上が端末を見ながら言って、マモルは首を振った。
「エースではないです。資格は早く取ったんですけど、仕事の成績はそんなに目立つようなもんじゃなかったし、悪目立ちして上に睨まれてたぐらいで」
「ああ…この事件か」村上はアルトの死のニュースを端末で読んでいるらしかった。「これはでも事故だろう?」
マモルは黙って目を伏せた。事故だって誰もが言う。事故だと俺も思ってる。でも、納得いかない感覚が残る。
「これで辞めたのか?」
「ICCとしては契約解除で、民間駆除業者って手もあるんですけど、やっぱりICCをクビになってると採用は難しいみたいです。そうやって検索したら出てきちゃうんで」
「そっか…厳しいんだな。自分で個人駆除士としても難しいのか?」
「専用の道具が必要になるので、登録制なんですけどICCクビになってると、登録がけこう難しいんです。調査も入りますし…業者に入って実務積んどかないと、資格更新もできないから…。それで今はバイトしながら、雇ってくれる業者探したりしてて、俺はできるのって、やっぱり駆除なんで」
「そういうことか。今日、面接があったとか?」
村上が焦りながら言って、マモルは否定した。「いや、そういうのじゃないんですけど、クビになって三ヶ月も過ぎちゃったんで、焦ってて」
「リミットがあるのか?」
「半年間、何の業務もしてないと、上級駆除士資格がなくなって、一般資格も一年後にはなくなります。取り直すのもできますけど、たぶん、今踏ん張らないとダメだと思うんですよね」
実際、マモルには焦りがあった。駆除から離れれば離れるほど、ハンターとの接触が難しくなる。
「民間の駆除業者なぁ…」村上が夫人を見て、夫人が村上を見た。二人の間に目線での会話が行われる。マモルはそれをじっと見つめた。何だ?
夫人が少しためらうようにしてマモルを見た。
「私の兄がやっていたと思うんだけど、恥ずかしながら、あまり兄妹仲が良くなくて、詳しくはわからないんです」
彼女が長い髪を背中に流しながら言って、マモルは小さく唾を飲んだ。思わず前のめりになる。
「聞くだけ聞いてみましょうか? 実家の母なら何か知ってるかも」
「ぜひ」マモルは必死で頷いた。村上が苦い顔をしているのが気になるが、今は思わぬところから落ちてきたぼた餅を拾いたい。
夫人が遊んでいた娘に寝る時間だと言いながら部屋へと促し、マモルには家に連絡してみると頷いた。
村上は黙ってビールを飲んでいて、マモルは少し気まずくなった気がして俯いた。
「あんまり悪く言いたくないけど、いい加減なところのある人だからな。真面目に働きたいなら他を当たったほうがいいとは思う」
村上が重い口調で言って、マモルは彼の横顔を見た。マモルとしては『いい加減』な方が嬉しいぐらいだが、心配してくれる気持ちはありがたい。
「わかりました。ただ、背に腹は代えられなくて。すごく助かるんです。そこから別のところにつながるかもしれないし」
村上は浮足立つようなマモルをじっと見たが、少し首を振ってから頷いた。
「そうだな。曲りなりにも業界は同じだろうし」
「良かった。さっきまですごく不安だったんですけど、ちょっと先が見えてきた気がします」
「ん……腕があるならそれを生かすべきだろうし。社会経験もあるみたいだから、説教はやめておく。でも私もだけど、公務員てのは視野が狭いから、充分気をつけることだ」
「わかりました」
マモルは素直に頷いた。同時に頭の片隅で、ケイにやっと何かの報告ができると安堵した。
村上はまだ少し不機嫌そうだったが、マモルが娘さんかわいいですねと言うと相好を崩し、その話題でしばらく盛り上がった。
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