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雑居ビルの三階にある小さな店には人が誰もいなかった。カウンターとテーブル席が二つあったが、客もバーテンもホステスもいない。かといってとうの昔に潰れた店でもなさそうで、きれいに磨かれたグラスと酒のボトルが何種類も並んでいる。椅子やテーブルも新品ではないが、丁寧に保たれている感じがした。壁にはトンボのモチーフが飾ってあり、カウンターの奥にもスチールで作られた「dragonfly」という小さな看板も見えた。
「何がいい? ビール?」
カウンターに入った男が言って、マモルは店を眺めるのをやめて彼を見た。その奥にある酒の瓶を見る。高い酒も揃っている。
「何でも」マモルはカウンターの椅子に座った。リュックを床に下ろし、小さく息をつく。しっとりと雨に濡れた体が少し冷えた。
「どうしてICCのエースがフラフラしてるのかって、噂だったんだよね。でも怖くて誰も手が出せなかった。そのうち適当に消えていくだろうって思ってたけど、そうもならなかったね。仕事、見つからないんだ?」
グラス二つにビールを注ぎ、男はカウンターの向こうでグラスを掲げた。マモルはそれに従い、グラスを持つ。二つのグラスが重なってチンと軽い音を立てた。相手がぐいと飲んだので、マモルもビールを飲んだ。
「噂って?」
マモルが聞くと、男はニコリと笑った。陽気な奴だ。少し人を小馬鹿にしているところはあるが、邪悪さは感じない。
「そりゃそうだよ、ICCをクビになるってのが珍しいし、伊達君はけっこう有名人だし、噂にもなる」
有名人なのか。マモルは目をしばたいた。自覚も実感もない。
「最初は余裕ぶっこいてたしね。伊達君自身も、すぐ仕事なんか見つかるって思ってたんだろ?」
マモルは頷いた。「思ってた」
「ICCから戻ってこいって声もかかんなかったわけ?」
「なかった。あるわけないだろ」マモルは息をついた。「俺は上の方針と合わなかったんだ。方針もクソもあるかって話だけどな」
「仕事が丁寧すぎて経費がかさむってヤツ?」笑みを浮かべながら男はマモルを見る。
「よく知ってるな。何、俺のこと調べたわけ?」
「さっきも言ったけど、伊達君は業界では有名なんだよ。ICCで名が知れてるってことは、駆除業界でも名が知れてるってこと。しかもJIPAに目の敵にされて露出されてりゃ、嫌でも目につく」
ということは、やっぱりこの男は駆除関係者だ。マモルは彼の動きや言葉を見逃さないようにじっと見つめた。警戒しつつ近づくのは駆除作業と似ている。
「駆除士としては一級品なのに、残念ながら学歴はないし職歴も専門的すぎて、日雇い仕事ぐらいしか見つからないみたいだね。でも貯金を全部切り崩すってほどでもないよね。カプセルホテルぐらいなら泊まれるのに、どうしてホームレスみたいなことしてるんだろう?」
「俺の貯金額まで知ってんのか?」
「いや、たぶん、って話。怒らない、怒らない」男はマモルをなだめるように言った。別に怒ってはいないが、面白くもない。マモルはビールをあおった。
「ICCをクビになって一ヶ月目は、クビになる前と似たような生活をしてた。ICCの食堂が使えるわけじゃないから、むしろ金は前より使ってたかもしれないな。最後の給料も入ったし、別に気にしてなかった。でもそこからは残った金であと何ヶ月暮らせるかって考えだしたら、そのままだと半年ぐらいだなって、もし慎ましく暮らしても一年もつかどうかってとこで、焦りが出てきた。金は温存しとかなきゃいけないって」
「だから野宿?」
「夜の仕事を受ければ、寝るのは昼でいい。ってなると、節約できるって気づいた」
「ふうん。だから、週に一回ぐらいは泊まれるところに行くわけだ?」
「監視でもしてんのか?」
「噂がね」男は笑って言って、それから少し考えた。「いつか、通信教育のカタログを熱心に読んでたときもあったよね。あれって学校に行き直そうと思ってたわけ?」
「監視してんじゃねぇか」
「まぁ、有名人だから挙動は見られてるわけだよ。学校、行こうと思ってた?」
男はマモルのグラスに二杯目を注いだ。マモルはそれを一口飲んで肩をすくめる。
「行けば人生変わるかなとは思った。仕事の応募さえできないのが悔しかったからな。だいたい高卒以上って書いてある」
「そうだよね、今時、それ以上の学歴持ってる人が大半だし。駆除業界で有名な伊達君でも、一般社会じゃただの中卒だったわけだ」
「しかも民間駆除業者とは接点も持てなかったしな。このまま毎日金の心配して生きるのかって思うと、滅入ってきてる。今日はあのタイシって人にやっと繋いでもらって、チャンスあるかと思ったらボコボコにされて終わりだし。変な奴に酒を奢ってもらってるのが救いだな」
「変な奴」男は朗らかに笑った。マモルはおかしくないので黙ってビールを飲む。おまえが変な奴じゃなきゃ、誰が変な奴なんだって話だ。
「今からクライアントになるかもしれないよ。これが採用面談かもしれない」
「マジか」マモルは眉を上げた。でもあまり期待はしない。ここでがっついても得はない。「せめて高卒資格取ってからでいいかな。どうせ中卒の給料じゃ、働いても食うだけで精一杯だ。金を温存してたのは、そういうことも考えてで…」
「高卒資格取って、何するの?」
「わかんね。今、応募もさせてくれない仕事への扉は開く」
「何かやりたいことってないの? シェフになりたいとか、電車の運転手とか」
「俺が中卒だから、そういうガキっぽい夢を持ってると思ってるわけだな?」
「いやいや、これは一例だよ。伊達君、意外とひねくれてるね」
「三ヶ月、おまえはいらないって言われ続けてると、こうなるんだ。俺は駆除士になりたくて駆除士になった。頑張って仕事して、おまえのやり方は良くないし、おまえはチームとして害虫だって言われてクビになったんだ。エースだってあんたは言うけど、上はそう思ってなかった。問題をよく起こす奴だから出て行けって話だった。今でも納得してないし、今となっては意地を張らなきゃ良かったとも思ってる。思ってるけど、そんなこと言っててもしょうがねぇし、俺にできることをやるしかないだろ」
「で、ヘドロ掃除とか、ドローン代行とかやってる? もうちょっとマシな、もっと人間っぽい仕事やるために資格を取るんだ? 例えば時給が二十円高いヘドロ掃除とか?」
「けんか売ってんのか?」
「タイシに言ったこと、本当かどうか確かめさせてよ。自分ならもっと精度のいい虫玉が作れるって言ったよね?」
「言った。隠れて聞いてたのか?」
「伊達君の腕がいいのは僕も知ってる。業界のたいていの奴が知ってる。なのにタイシもみんなも手を出さないのは、伊達君が元ICCだからだ」
「そう言ってたな。迷惑だって言われた。効率も悪いし、人聞きも良くない的な」
「みんな狙ってるんだけど、手は出せないってヤツだね。元ICCのエースだから」
「エースって言うが、俺はそんな評価されてなかったからな。給料だって上級駆除士の基準ラインだし、表彰だってされてない。誰かと間違ってんだよ」
「伊達君はクリーン過ぎるんだよ。ICCにいた間、一度も横流しをしてない。だからみんな手を出せないんだ」
「悪かったな、後悔してるよ」
「どうしてICCにいたとき、虫玉を一度も売ろうと思わなかったんだろう?」
「興味がなかった。売る相手もいなかった」
「そうだよね、たいていは一番下の下級駆除士のときに声をかけられるんだよね。給料はまだ安いし、ちょっとバイトの気分で売っちゃうのが多い。伊達君は下級駆除士のとき、まだ子ども過ぎて業者も近づかなかったんだよね。子ども過ぎて、ICCも念入りに育ててたみたいだし」
「それもこれも、中卒で駆除士になった俺が悪いんだろ?」
「伊達君は面白いね」男は声を上げて笑った。マモルは面白くない。
「で、これは面接なのか?」
マモルが言うと、男は自分もビールを最後まで飲み干した。
「主に個人的な興味での質問だったけど、まぁ、伊達君の人となりはわかってきた」
「腕を見たいってのは?」
「タイシに借りてきた」と男はカウンターの上に銃を一丁置いた。マモルがいつも愛用していたのと同じG2の拳銃だ。本当は一番好きなのは長銃のAM49だが、G2も小型の銃としては気に入っている。そういう好みまで熟知されているのが悔しい。
「明日の夜、虫玉を持ってきてよ。それで話をしよう」
「1個?」
「いくつでも」
「弾は何が?」マモルはG2のマガジンを開きながら聞いた。久々の感覚に胸が少し踊った。自分でも少し意外だった。もっとためらいがあると思っていた。
「見ての通り。0.3が6つ」
男の言葉にマモルは頷いた。だったら対象は通常の大型甲虫やバッタサイズだ。超大型を探して仕留めてこいという話ではない。
「種類指定はなし?」
「何でもいいよ。腕試しだ」
マモルはマガジンを戻した。カシャンと心地よい音がする。
「嬉しそうだ」
男が言って、マモルは顔を引き締めた。それを見てまた笑われる。
「で、満足したら雇ってくれるのか? それとも違法駆除だって逮捕されるのか?」
マモルが言うと、男は楽しそうにマモルを見た。
「罠かもしれないって? それはお互い様。こっちだってリスクを犯してる。むしろ感謝してほしいぐらいだ。僕は先に手の内を見せた」
「名前も何もわかってないけどな」
「僕の顔と、この店を知ったろ? もし質のいい虫玉を持ってきたら、改めて話をしよう。明日、夜六時にここに持ってくること」
マモルは銃を見た。六発あれば充分だ。これが就職試験なら合格する自信もある。
「わかった。明日六時な」
「もし何も捕れなくてもおいでよ。ビールぐらいなら奢ってやるから」
男が言って、マモルは自分のグラスを空けて立ち上がった。リュックに銃を入れ、背に担ぐ。
「もっといいものを奢りたくなる」
マモルはそう言って店を出た。
腕には自信がある。虫がどこにいるかもわかってる。
見てろ。あのニヤついた顔を驚かせてやる。
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