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 リベルがついて来たがったが、マモルは面倒をこれ以上抱えたくないと断り、一人で昆虫館の裏へ来ていた。国立昆虫館は広い研究林の中にあり、そのエリアに入るだけでも、電磁柵をくぐらないといけないというちょっとした冒険が必要だった。しかし虫はどうせ自由に出入りしているのだ。猫や野犬、イタチが入らないようにしているだけだ。あるいは虫を狙ったハンターが。  マモルは柵を乗り越えるために使ったゴム手袋を外し、林の中を歩いた。ここにも各種の昆虫が保護されており、中にはエリアを区切って危険なものも保護している。だから温室みたいな透明なハウスがあちこちにあり、その間を普通の蝶がひらひら舞っているというのが見られる。今は閉館時間を過ぎ、蝶よりは蛾が活動し始める時間で、群れとなった蚊やコバエも見えた。  マモルはグリーン系のデジタル迷彩服でそっと林を歩いた。柵のそばは背の低い藪だったが、次第に背の高い木々が立つエリアに入り、その奥に透明ハウスの並ぶ草原が広がっていた。  監視カメラや監視ドローンはあるが、それほど警備は厳重ではない。おそらく外で保護しているタイプのものたちは、万が一外に出ても危険でもなんでもないタイプの虫たちで、ただ研究用に観察しているだけだからだろう。  マモルも巡回に歩いている係員の照らすライトと、監視カメラの目を盗み、ハウスの間を縫って建物に近づいた。  表から入るには立派な門と昆虫の解説パネルのあるレクチャールームを通る必要がある。別の通用口は搬入業者や職員の出入り口があるが、そこは基本的に人が出入りする前提なので警戒が強い。そして裏は林への出入り口というだけなので、あまり警戒が強くないと言える。  マモルは息をついて灰色の建物の前に立った。表の展示エリアも含めて有名建築家のデザインで、屋根の上は蝶が羽を広げたような優雅な造りになっている。その下は曲線が多用された自然との融合を想像できるような建築だった。  裏口の出入り口のパスコードは年に一回更新される四桁の緩いもので、これは清掃業者でも手に入れられるようなものだった。それを入れて中に入る。  湿気と人工的な土の香りを感じて、マモルはゴーグルを首に落として薄暗い辺りを見た。人気はない。ここからは関係者ではない自分がいたら通報されるレベルだ。夜の昆虫館には夜間の研究を続ける職員や、飼育員が残っていて、昼よりはかなり数は減るものの不審者が自由に歩き回れるほどではない。  マモルは頭に入れておいた地図通り、通路を曲がって希少種を保護している保護区画へのドアを目指した。  パスコードの配列には確かに規則性があった。毎週変わる部分が上級駆除士試験でよく出るが、覚えて意味があるのかどうかは疑問視されている絶滅種の学名略称だったのだ。順当にいけば今週はアレだ。  マモルはテンキーにコードを入れ、その後に出てきた指紋認証のマークを見た。三回失敗すれば登録番号入力画面に入るが、マモルはショートカットして一番下のCマークを押す。すると生体認証がキャンセルされて登録番号の入力画面になった。それで事務長の番号を、少し心が痛みながらも入れる。  ケイは心置きなく入れろと言っていた。おまえが経費を使いすぎだと騒いでいたのは事務長だ。クビにしたのもあいつだと。だからといって事務長に侵入罪を押し付けるのはどうかとマモルは思う。  が、まぁすぐに疑いは晴れるという話だからしばらく我慢してもらうことにする。何しろマモルの番号はもうなく、他の誰かの番号を使うしかないのだから。  ドアが開き、マモルは素早く中に入った。最初にコントロールエリアがあり、そこにも入室管理のテンキーがある。これは他と同じ四桁だからすぐに開く。  監視カメラが撮影しているが、入室に問題がなければ通報は行われない。  マモルはフードを深くかぶり直し、巨大ケースが並ぶ通路を歩いた。この辺りはまだ絶滅危惧レベルでいうとイエローラインだ。走ると異常検知されるので、ゆっくり歩く。夜行性の虫が鳴き、羽音がするので室内はけっこう騒がしい。そして一部は発光するので、なかなか面白い景色ではある。  レッドラインの通路を過ぎ、網の扉を抜けると、そこはちょっと空気が変わる。異常遺伝子や人間の改造で形や色、攻撃性が上がるなどの変化があった種が保護されている。中には既にホルマリン漬けになったものもある。  マモルは小型銃を腰に確かめ、ケースの並びを追った。マモルも初めて見るような虫がたくさんいる。思わず見入ってしまいそうになるが、首を振り、虫玉にして珍しいものになりそうなのを探す。偽物じゃない証拠に動画も撮れということだから、カメラをかざす。  マモルはため息が動画に入らないように息を詰めた。俺は何をしてるんだという気持ちを押し殺す。  そしてコレと決めたトパーズみたいなオサムシ科の何かを撃った。  撃つとシュパッと異音がするので、センサーで検知される。監視カメラが警告の赤いライトをつけた。  マモルは続けて、別のケースを開いた。ねじって開くタイプで鍵はついていない。毒が少ないものだからだろう。そうじゃないとマモルだって怖い。  数種類を撃ち、虫玉を回収して出口へ急ぐ。息が上がり、指が震えてテンキー入力は一度失敗した。職員が異常検知をカメラのいつものミスだなんて思わない限り、あと何秒かで出入り口がロックされるだろう。  マモルは汗が流れるのを感じながら、入ってきたドアを開いた。背後でロックがかかる音がして、人の声と足音がした。部屋から出るのはギリギリ間に合ったが、昆虫館から出られるかどうかは別の話だ。  マモルは人が来ない方向へと通路を進み、展示室につながるドアを開いた。ショートカット通路用の階段を駆け上がる。通常の展示室は螺旋状のスロープになっていて、エレベータで一番上まで行って、歩いて下に降りてくる構造になっているが、ショートカット用の階段にはカメラもなく、センサーもないのは下調べしてあった。  マモルは警告音が鳴り響き、全館に光が灯るのを見て、一番上の四階に出た。屋上へと出る別の階段へと進み、屋上ドアから外に出る。そこは半屋外レストランになっていて、上にはガラスと鉄パイプでできた蝶が羽を広げている。完成した時、マモルは上級駆除士になったばかりで、屋根の掃除が大変だろうなと思ったことを覚えている。  警備ドローンが飛んでくる前に、マモルは清掃作業者用の細い外部ハシゴを降りた。それは途中までしかなく、三階のテラスで終わっている。  そこから二階の屋根へは飛び降りることができる。ちょっと足首を痛めるかもしれないが、何とか。  そして一階へはふわふわした柔らかい土と草の植え込みがあるから楽勝だ。  マモルは飛び降りた後、虫玉を確かめ、林の中へと走り込んだ。木々の中へ入ってしまえば、ドローンが追ってきたところで撃たれることもない。そこまでの許可は軍用施設でもない限り持っていないはずだ。  マモルは入ってきたのと同じ場所へ戻ろうとして、急ブレーキをかけた。  強い光がこちらを照らす。 「マモル、両手を上げてこっちに来い」  ダイトの声がして、マモルは身を翻した。今、捕まるわけにはいかない。  どこでもいい。電磁柵のあるエリアなら逃げる道はある。が、強い光はマモルを追って走ってくる。車両搭載の投光器のようだ。  マモルは必死で木々に紛れようと走った。あまり中に戻ると中からの誰かに捕まってしまう。 「マモル!」  マモルはダイトの声を振り切り、搬入車両用の裏口の近くまで来た。カメラは背後から近づいてくる者には反応しない。が、おそらく門の全方向カメラは歪んだマモルの影を捉えているだろう。 「伊達さん」  佐伯ミキの声がして、マモルは天の助けだと思った。 「こっちへ」  通用門の前に二人乗りの小さな自動車が停まっている。ICCの車両には馬力で負けると思ったが、自力で走っているよりはまだマシだろう。マモルは残った力を振り絞り、ミキの車の助手席へと飛び込もうとして、ガツンと障害物に当たった。体が跳ね返って背中から地面に倒れる。  何が起こったのかわからない状態で体を起こそうとしたところへ、誰かが馬乗りになって押さえつけてきた。そしてヒップバッグを奪おうとする。 「あ”ぁっ?」  マモルは左手でベルトを押さえて抵抗し、右手で携帯用スプレーを出して相手に向けて噴射した。ぎゃぁと相手が怯み、マモルは体を横に倒して逃れた。投光器の明るい光が近づき、マモルはミキの車に何とか駆けつけた。飛び乗ろうとしたら、運転席のミキが変な顔をした。 「ごめんなさい」  ミキが言い、マモルは横からもう一度、別の奴にタックルを受けた。そして今度こそヒップバッグを奪われ、襲撃者はミキの車に乗って走り去って行った。  あの野郎。  マモルは車を追いかけるように外の道に出た。騒動を聞きつけた近所の住民がちらほら見え、マモルは背後からまた強い光に照らされた。が、ICCの車両はそこで止まった。  マモルはよろめきながらも人々の間を抜けて小さな路地へと入った。  スプレーを浴びた襲撃者が遅れて逃げてくれたことで、ICCはそちらをマモルだと勘違いして追ってくれたようだった。  マモルは止まらずに歩き続け、迷彩服を裏返してリバーシブルの黒い面に着替えて地下鉄に乗った。もうICCの姿も警察も別の追手もいなかったが、それでも心臓はバクバクと鳴っており、いつもの貸し部屋に戻った時はどっと疲れが襲ってきた。  ごめんなさい、だと?  マモルは怒りが収まらずに部屋を壊したい気持ちに襲われたが何とか我慢した。今日、昆虫館に行くことは佐伯ミキにも言ってなかったし、報告書の詳細な中身まではパスワードがかかっていて見てないだろうが、ミキはマモルの行動の大枠を知ることができた。だってケイに連絡する伝言は彼女にしていたのだし、ケイだってミキを通じてマモルに伝言していたのだから。  マモルが大きな市場に乗り出すために、違法行為をすることぐらいはわかっていた。それが希少種に関わることだというぐらいは気づいただろう。  それでICCに通報したのか? つまり襲撃者はJIPAの人間ということだろう。そりゃ俺はあんたらの敵だ。希少種を殺し、虫玉にして売ろうとしてる。だからこそ、俺はレッドリストのは避けた。人間が勝手に作り出した、子孫が残せない奴らを。確かにあいつらだって殺さなくていい命だ。そりゃそうなんだけど。  マモルは部屋の大半を占めている古いベッドに寝転び、両手で顔を覆った。  信用してたのに。  いざとなったらJIPA側か。  マモルは深く息をつき、そして脱力した。  明日から自分は昆虫館から希少種を盗んだ犯罪者だと思う。ダイトの声を久しぶりに聞いて、何だか胸が締め付けられた。  飛び降りた衝撃で足は痛いし、タックルを二度も受けて、背中や肘、膝が痛かった。コンクリートに打ち付けた側頭部には血が滲み、手の指もあちこち剃って傷だらけだった。  だけど残念だったな。  マモルは迷彩服を脱いで、その胸ポケットのジッパーを開いた。  そこには散々な思いで手に入れた虫玉が入っていて、どれも欠けることなくきれいに出てきた。  大事なモンは簡単に盗られないようにしてるんだよ。  マモルは救急キットや非常時用のライトなんかが詰まったヒップバッグを開いてがっかりしているJIPAのメンツを思い浮かべて、ザマァ見ろと思った。
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