ヒマワリの視線

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「どこか、具合が悪いんですか?」  空気の熱された、八月某日。セミの声の合間を縫うように、涼やかな声が幸助の耳をくすぐった。  夏休みで帰省してきた息子家族を連れてやって来た公園。孫の元気に敵わず、木陰のベンチに座り、濡らしたハンカチで目を隠して伸びていた幸助は、どうやら他人には体調不良の老人に見えるらしい。  苦笑いをすぐに愛想笑いへと変えて、ハンカチをどかし、姿勢を正して、照れ隠しにハンカチで頬を拭く。 「いやあ、孫と遊んでいたんです。ほら、あそこの、父親が私の息子でね。今帰省してきてくれているんです」 「そうだったんですね」  そこでようやく声の方を見て、体が強張る。  大きなヒマワリがいくつか、こちらを見つめていた。 「どうかしました?」  慌てて、声の方に顔を向けると、髪の長い女性が、心配そうに幸助を見つめていた。  何処かで見た。そんな気がする。いや、こんな若い女性の知り合いはいないはずだ。  幸助は首を振って、強張った顔をどうにかまた、笑みの形に戻した。 「いえいえ、なんでもありませんよ」  女性は横に腰かけると、ヒマワリを一輪、幸助に見せた。表情が固まるのを見て、女性はすぐにヒマワリを自分の影に隠した。 「ヒマワリ、お嫌いですか?」  いたずらが成功した子供のような笑い方が、記憶の奥底にある何かに触れた気がした。 「失礼、何処かでお会いしたことがありましたか?」 「誰かに似てます?」 「いえ、その、見たことがあるような気がして」 「ふふふ。私は有名人でもないですよ。あ、もしかして、私を口説いているんですか?」 「いやいや。そんなことはないですよ」 「本当かしら? おじさまなら、私かまわないですよ?」  妙に色気のある視線と声に、久しく忘れていたはずの欲求が、幸助の中で息をしたのがわかった。そして同時に、言いようのない恐怖も感じた。  話を変えなければ。そう思い、先ほどの女性の質問に答えることにした。 「嫌い、というか、苦手なんですよ。ヒマワリ」 「どうしてです?」 「どうしてでしょう。昔は平気だったんですけどね。なんだか恐ろしく感じてしまって」 「もしかして、何か後ろめたいことがあったりします?」 「え?」 「ほら、ヒマワリって、太陽に似てませんか? ヒマワリは大地に咲く太陽なのかもしれませんよ?」  深くなった笑顔が、幸助の背中に嫌な汗を伝わせる。  生唾を飲み込む。喉が渇いていると感じるのに、声はかすれもしない。 「すいません、察しが悪くて。どういう、ことですか?」 「昔は、どんなこともお天道様が見ている、なんて言ってたじゃないですか。だから、ヒマワリが怖いのは、お天道様に顔向けできない何かがあるから、だったりして?」 「私は、そんな」  思わず視線を逸らす。女性の視線が、顔が、声が、幸助は恐ろしくて仕方なかった。  どうしてなのかわからない。だが、何か奥底の、封がされている記憶が、今にもあふれ出てきそうな。  これは、思い出してはいけないものだ。そのはずだ。  意識すればするほど、記憶のふたが開いていく感覚。光の中、そこだけが真っ黒な闇。闇がどんどん、光を侵食していく。  自分が、飲み込まれていく。   「おじいちゃん!」  声に驚くと、セミの声が一斉に聞こえてくる。  目を開けると目の前に孫がいた。足にハンカチが乗っていて、少し湿っている。  辺りを見回せば、良く知った公園の風景。入道雲が質量を持って空に浮かび、木漏れ日がゆらゆらと揺れている。 「え?」  わけもわからず、そう声を漏らした。気づけば息子も、息子の嫁もそこにいた。 「父さん、大丈夫?」 「あ、ああ、いや、ははは、歳には勝てんな」  幸助が誤魔化そうと笑うと、息子の嫁が経口補水液をわたしてくれる。 「歳じゃなくてもこの暑さは応えます。私たちも帰ろうって話してたんですよ」 「ああ、そうだな。暑くて敵わなん」  もらった経口補水液をぐっと飲み、舌の中に広がる味に思わず顔をしかめる。 「ああ、不味い。不味いってことはまだ熱中症ではないな。はっはっは」 「ゲームしようおじいちゃん! マリカ!」 「ああそうだな、おじいちゃんも少しは練習したんだ。今日こそ勝つぞお?」  立ち上がり、四人は幸助の家へと歩いていく。  孫に手を引かれながら、幸助は笑顔を浮かべる。  だがその裏では、水の様に闇が満ち始めていた。
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