死んだ人がかえってくる日

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「僕、海神(わたつみ)くんのことが好きなんだ」 吊り橋効果。カリギュラ効果、罰への要求、ゴルディロックス効果といった一般にも知られている心理学の中でも一際広く知れ渡っているものだ。吊り橋を渡る不安で逸る鼓動を勘違いして、一緒に渡り切った安心感を勘違いして、相手との連帯感を強める。自分はこの人のことが好きなのだ、という錯覚に繋がる。 今俺の目の前には、それを利用して告白してきた友人がいる。 肝試しなんてするんじゃなかった。「怖いの?」なんて煽られて誘いに乗ってしまったからだ。俺のことをよくわかっている彼がどうして怯えて腕に絡みついても笑っていたのか考えてもいなかった。 光のない廃墟ビルの3階に、吹き曝しになった窓から真夏のぬるい風が抜ける。窓枠はあるがガラスが嵌められていないのだから当たり前だ。手元と足元だけを照らしてくれるスマホのライトを少し上に向けて、今彼がどんな表情をしているのか確認した。 「……赤枝(あかし)、本気?」 「本気、本当。裏切るようなことしちゃったかな、友達なのに」 「裏切りとは、思ってないけど……」 そう言った赤枝の顔は白いライトでもわかるくらい血の気が引いていた。冷や汗の滲んだ額に前髪が張り付いている。男として悔しい限りだが、少し髪型が崩れても彼は相変わらず格好良かった。 「それで、その、好きなんだ」 「ああウン聞いてる、ちょっと待って……混乱してるっつーか」 彼が喋りながら一歩距離を詰める。無意識に脚が一歩後ろに下がった。もう一歩詰められて更に一歩。足元には砕けたガラスの破片やら壁が割れてできたコンクリートの塊が転がっていて、転んで手をついただけで大怪我をしそうだ。 「ねえ、窓にはガラスがないから、あまり近づくと危ないよ」 「じゃお前が近づくなよ……」 「わかったよ、これ以上は近づかないから」 足音が止まる。下がる脚を意識して止めると、すぐ目の前に赤枝の身体があった。 「ひッ……」 「逃げないで」 俺の見上げる位置にある頭が揺れると同時に伸びた腕に捕まれ、抱き込まれる。暑いのに、密着する身体の熱に鳥肌が立った。 「ッ、やめろ! 離せ!」 「ごめん、でも危ないからこっちに来て。せめて僕と立つ場所代わってよ」 「いいから触んな!」 赤枝とは友達だ。数学のノートを借りたり、英語のプリントを写させてやったり、そんな持ちつ持たれつの対等な関係。同性という括りから出たことのないせいか、友情以外のものを感じたことがない。 好きだと言われて、正直とても混乱していたのだ。今となっては言い訳でしかないけれど。 「ねえ、本当に危ないから……足元色々落ちてるし」 「触られたくねえって言ってんだよ! ホモに!」 身体に纏わり付く手を強く弾く。拍子に手に持っていたスマホが手の中から抜けた。反射でそれを目で追ったのと腕に纏わり付く人の熱が離れたのは同じタイミングで、「あ」と声がした方向を振り返る頃には赤枝の身体が外へと放り出されていた。 「…………え?」 彼がどんな顔をしていたのかも見えなかった。 大きな黒い影が一瞬にして目の前から消える。何か(・・)が高所から落下する空を切る音。重い物が地面へと叩きつけられる大きな音。それが聞こえたあとひどく静かになって、スマホの光がなければ1メートル先も見えない暗闇の中で茫然と立ち尽くす。 悲鳴も何も聞こえなかった。一瞬の出来事だった。まさか。そんなことが起こるのか? 嘘だろう、きっと赤枝の仕掛けた悪戯だ。トリックなんて思い浮かばないがそうとしか思えなくて、そう思いたくてそうであることを確かめたくて窓の外を覗き込んだ。身を乗り出して見下ろした先にある深更の暗闇は俺に何も教えてくれない。何も見えない暗闇の先にじっと目を凝らして声を絞り出た。 「あ、あか、し……?」 小さな声で呼びかける。返事は返ってこない。 「あかし……赤枝!」 手探りで飛んでいったスマホを探し、ライトを赤枝の落ちた場所に向ける。だが、どんなに光度を上げても光が下まで届くことはなかった。 この場所に上がるまで鉄骨階段を2階分登ってきたのだ。多分、地面まで10メートルくらいあるんじゃないか。こんな暗い中でも光の届かない先に、何もない地面に人の身体が叩きつけられて無事でいられるなんて思えない。 リン、リィンと風に乗ってどこかから風鈴の音が耳に届いた。 呼ぶ声に返事はない。耳の奥でキーンと音が鳴っている。他に何も聞こえない。静かなのにうるさくて耳が痛い。全身の神経が剥き出しになった感覚。腕に流れる汗が不快で脚に纏わり付く蚊が気持ち悪くてその場に蹲った。立てない。何も誰もいないのに汗まみれのうなじを誰かの指が掠めた気がした。慌てて振り返る。背後には何もいない。 「──わたつみ、くん」 耳元で名前を呼ばれた。気のせいではなくはっきりと聞こえたそれは赤枝のものではなく、男の声と女の声が混ざり合った、嗄れていて濁っていて甲高くて潰れたような声だった。 そこからの記憶は曖昧だ。ただ狂ったように叫んで走った。次に記憶がはっきりしたのは、汗と涙に塗れた顔で馴染みのコンビニに駆け込んだあとのことだった。 ■ あれは赤枝の悪戯だ。だって、あいつ悲鳴一つ上げなかった。 その結論に至ったのは店員に遠巻きにされながら泣いて一時間以上コンビニに居座ったあとのことで、それでも一人で家に帰ることができずコンビニのすぐ隣にある朝5時まで営業しているファミレスで過ごした。空が白ばんで来たのを見てようやく家へと脚を向け、誰もいない玄関の扉を開ける。緊張の糸が切れたのか途端に吐き気に襲われてしばらくトイレで吐いていた。 口の中に嫌な酸味を感じながら考える。何で逃げたんだ? どうしてその場で救急車を呼ばなかった。 だが、俺はその答えを持っている。至ってシンプルで、全て自分の保身でしかない答えだ。 「あいつの……赤枝の母親のせいだ……」 赤枝の家は特殊だった。母親は所謂毒親と呼ばれるやつで、過干渉と暴力で全てを支配して成り立たせていた。高校生にもなって母親に逆らえないのかと笑う俺に「力の問題じゃないんだよ」と彼は困り顔で笑った。赤枝の腕には昔母親に切りつけられた傷痕がある。首には細い女の指でできた痣があった。喉仏を潰すように中央から動脈を抑える位置にぐるりと回った細い指の痕だ。薄くなるたびに上書きするようにどす黒い色で皮膚を染めた。 赤枝の母親は近づくといつもアルコールの臭いがする女で、赤枝のことをいつ殺してもいいと言っていた。それは息子だけではなく他人の俺であっても変わらないことだった。 歪んだ親の暴力は教育で、いつも言うことを聞かない息子を叱る体で振るわれる。息子を誑かす悪い同級生にも同じことだった。ただ少しは理性が働いているのか、それはいつも加害の証拠が残らないすれすれで行われているのだ。家の掃除をしていなかった、帰るのが遅かった、私に逆らった。その原因を俺に求め、包丁を突きつけて脅された。二度と息子に近づくなと。 俺はそれに従って、赤枝と会わない約束をした。もう一年以上前の話だ。 「僕、海神くんと居れて嬉しいよ。僕とまだ友達で居てくれるのって海神くんだけだから」 涙声でそう言った赤枝の言葉におそらく偽りはなくて、俺自身何度も他の友達からは縁を切るよう諭された。別に、家に近寄らなきゃ平気だし。そう言っても約束を破ったのは同級生の中で俺だけだった。 そんなことを思い出しながら、トイレの床に頬をつける。脱水と疲労で意識が飛びそうだ。でも早く起き上がらないと。もうすぐ夜勤明けの母が帰って来る。 赤枝に言えなかったことがある。俺の家庭も、似たようなものなんだ。 外が明るくなるまでの間は家中の電気をつけて歩いた。鏡を見るのが怖いからタオルで覆ってシャワーを浴びた。外が明るくなって来たら今度は家のカーテンを全部開けて、途中で帰ってきた夜勤明けにすぐ寝たい母さんがヒスを起こして喚いた。 俺の母さんは包丁を振り回したりしないけど選ぶ言葉が強くて、それでいて俺よりずっと非力な人だ。むかし、親子喧嘩で逆上した俺が殴ったら母さんは笑えないくらい身体が吹っ飛んだ。壁に頭をぶつけて、血が止まらなくて、俺は本当に人を殺したと思ったのだ。 結局母さんはまだ生きてるけど、それ以来俺は母さんに逆らうのが怖い。人を殺してしまうのが怖い。きっと赤枝が母親に逆らえないのは殺されるのが怖いからだけど、俺が母さんに逆らえないのは殺してしまうのが怖いからだ。 「あんたいつまでご飯食べてんのよ、さっさと学校行かなくていいの!?」 言われて時計を見ると、いつも家を出る時間より20分過ぎていた。慌てて席を立ち食器を流しに置く。まだ走れば十分間に合うはずだ。 「ちょっと食器!」 「ごめん、帰ったらちゃんと片付けるから」 まだ喚く母さんを無視して部屋に鞄を取りに行く。居間を通り抜けた直後、扉に通勤バッグが投げつけられた。 母さんの悪いところはすぐにヒステリーを起こすところだが、良いところはそれが持続しないところだ。帰る頃には機嫌も直っているだろう。そんなことを思いながら玄関の扉を開ける。 8月ももう半ばが近いこの頃は、午前中のこの時間も強い日差しが肌を焼く。だが、俺の肌に日差しは届かなかった。 「おはよう、海神くん」 「……あ、かし……?」 目の前に大きな男の影が射す。俺を見下ろす位置にある顔は間違いなく赤枝のものだ。声も。 「ちょうどよかった、今呼び鈴鳴らそうと思ってたんだ」 「なん、で……お前……ッ」 「一緒に学校に行くのは当たり前のことだよ。だって僕たち、付き合ってるんだから」 赤枝がはにかむ。その表情には全く嘘偽りがなくて、ついでに傷痕や血の跡なんかも無い。 付き合ってるって? わからない。俺は昨日夢を見ていたのか? でも、制服のポケットには今朝方まで居座ったファミレスのレシートが捻じ込まれている。 「──……なあ赤枝、お前昨日の夜どこにいた?」 「どこって? 酷いな、忘れちゃったの? 一緒に肝試しに行ったじゃない」 「う、嘘だ……ッ、だって赤枝は……!」 「だからあんなに窓の側に立ったら危ないって言ったのに」 玄関扉の把手を握る手に手が重なる。俺よりも大きくて冷たい男の手のひら。 「散々人に心配させて、言うこと全然聞かないんだから」 耳元で男が囁く。聞き慣れた赤枝の声の中に昨晩聞いた声が混じる。男の声と女の声が混ざり合った、嗄れていて濁っていて甲高くて潰れた声。 「ねえ、僕と付き合ってよ。それだけが心残りで死んでも死に切れないんだ」 呼吸が浅く荒くなる。手が振り解けない。暑いのに寒くて汗が止まらない。目を見開いて見上げる俺に赤枝は薄く微笑んだ。 「そのくらいの罪滅ぼししてくれていいと思わない? だって、あんな酷いこと言ったんだから」
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