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叩きつける夕立の隙間に蝉時雨が降り注いでいる。
郁也はカバンを頭に、バス停へ走っていた。バス停が見えたとき、バスはちょうど停車したところだった。
乗車口に飛び込んで、びしょ濡れのカバンから定期を取りだし、リーダーにかざす。車内を見回すと、一番後ろの席がひとつ空いていた。定期をしまい、タオルでカバンを拭きながら席へと向かう。
発車します、と力の抜けたアナウンスに車体が動き出した。
降り出したのがバス停まであと少しのところだったので、彼の制服はあまり濡れていなかった。
カバンの中から読んでいる途中の小説を取り出す。カバンの外側は濡れていたが、中はなんとか免れたようだ。
そこで気がついた。隣に座っている人も同じ小説を手にしている。
郁也はちらっと横を伺った。座っていたのは、彼と同じ高校の制服を着た女子高生だった。茶色っぽい髪の毛が肩にかかっていて、丸眼鏡をかけている。彼女の制服は濡れていなかった。そのかわり、右手に折りたたみ傘の紐がかかっており、ぶら下がった傘からは滴がぽたぽたと落ちていた。
学校で見たことがある人だった。高校に入って二年間、特に接点もなく喋ったこともなかったが、放課後の廊下で何度かすれ違ったことがある。
郁也はあの、と声をかけた。
はい、と彼女は控えめにこちらを見た。
その頬は濡れていた。
少し戸惑いつつも、郁也は笑顔を見せた。
「俺、三組の犬童郁也っていうんだ。たぶん、同じ二年生だよね?」
彼女は目を泳がせ、少し俯き気味のまま答えた。
「藤澤野乃実です。二年一組です」
「よろしく」
「よろしくお願いします」
野乃実の声は聞こえるか聞こえないかのぎりぎりの大きさだった。
「ごめん、いきなり声かけちゃったけど、大丈夫?」
郁也は申し訳なさそうに尋ねた。
はい、と答えるその声は今にも消え入りそうだった。
「あのさ、俺、今日の数学の授業中、暇だったからノートちぎって先生の顔のいたずらがきをしてたんだ。で、それを紙飛行機にして、後ろにいる友だちに投げたんだけど、窓からの風で進路が変わっちゃってさ、紙飛行機は先生の後頭部に直撃。それで、めちゃめちゃ怒られちゃった」
郁也の話に野乃実はきょとんとした。
「なんでその話を?」
「いや、落ち込んでそうだったから、俺の失敗談でちょっとは元気出してもらえるかな、なんて」
野乃実は相変わらず表情を変えずに郁也を見ている。
「あー……気分を悪くしたらごめん、俺、よくやっちゃうんだ。こういうの。その、話が下手って言うか、人の気持ちを勘違いしてしまうっていうか」
野乃実が目を細めた。まつげがきらきらと光っていた。優しい笑顔だった。
「ありがと」
郁也はその言葉に強張っていた頬を緩めた。
「俺の勘違いだったらごめん、もし、俺なんかで良ければ、愚痴でもなんでも聞くよ」
彼女はうーんと少しためらうようなしぐさを見せ、それから前後に揺れた自分の足先を見つめた。
「私、何の役にも立ってないダメな人間だなあって……」
座席がガタンと揺れて、また折り傘から滴が落ちた。
野乃実の顔は足先に向けられたままだが、その目はどこか遠くを見ていた。
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