2人が本棚に入れています
本棚に追加
野乃実が停車ボタンを見上げ、腕を動かした。
「藤澤さんの存在は無意味じゃないよ」
郁也の声に野乃実がゆっくりと顔を向ける。
彼女は腕の動きを止めて、窓の外を見つめた。汚れたマンションの壁を雨が伝っている。
バス停を通り過ぎたバスに乗っているのは二人の他におばあちゃんとその孫だけだった。
郁也が降りるバス停の名前が車内に響く。
「俺は藤澤さんと、こうやって話せて良かったと思ってる」
「ほんとに……?」
彼女は窓の外を見たままかすれた声を返した。
バスが郁也の最寄に到着し、ドアが開く。
おばあちゃんとその孫が手を繋いで降りてゆき、バスの乗客は郁也と野乃実の二人だけになった。郁也は閉まるドアを見てから、振り返った野乃実の目を見た。
「本当だよ。俺にこれだけ悩みを話してくれた人は藤澤さんが初めてだから」
バスが動き出し、野乃実の瞳の奥が揺れた。
「犬童くんは、優しいんだね。きっと、大切に思っている人がいると思う。そんなに人のことを大切に思えるんだから」
「そうだといいけどね」
彼はまた、自分の手を見つめていた。
「きっとそうだよ。私の話をあんなに真面目な顔で聞いてくれる人がいるなんて、思ってもいなかった。それに自分の悩みまで教えてくれて、苦しいのは自分だけじゃないんだってわかった」
「それは、よかった」
バスが大きく揺れて、野乃実が郁也の方へバランスを崩す。
倒れ込む野乃実を、郁也は咄嗟に支えた。
「ご、ごめん」
郁也は何事もなかったかのようにバス内の掲示板を見上げた。その頬は赤らんでいるように見えた。
「犬童くんと話せて良かった」
「俺も、藤澤さんと話せて良かった」
郁也は腕時計を見た。
「ところで、藤澤さんはどこのバス停まで行くの?」
えっ、と彼女の目が泳ぎ、言いにくそうにぼそぼそと答える。
彼女はだいぶ前に通ったバス停の名前を口にした。
「話に夢中になってて降り過ごしちゃった。犬童くんは?」
「実は、藤澤さんのバス停の次なんだけど、俺も降り過ごしちゃって」
二人は顔を合わせ、見え透いたお互いの嘘を笑った。
「じゃあ、次で降りようか」
郁也が降車ボタンに手を伸ばしたところで、運転手が終点を告げるアナウンスをした。
野乃実はもう一度笑って、指で目を拭った。
バスから降り、向かいのバス停へと歩く。
いつの間にか気にならないくらいの小雨になっていた。
「ところで犬童くんは、なんで私に話しかけてくれたの?」
郁也はカバンから小説を取り出した。
「これ、藤澤さんも同じ小説読んでたから」
野乃実は納得した顔を浮かべた。
「そういうことだったんだ。最初話しかけられたとき、突然だったからびっくりしちゃった」
「ごめん、好きな作家さんの新作だったから、つい嬉しくなっちゃって」
「まあ、話しかけてもらえて嬉しかったんだけどね」
野乃実が夕陽色に染まった水たまりを避けて歩く。
「私もこの作家さん大好きなんだ」
「本当!? 初めて仲間に会えたよ! なかなか知られてないから話合う人が少ないんだよね」
「わかる! こんな良い作品ばかり書くのに何で話題にならないんだろう」
「ねー」
二人はバス停に並んだ。雨に濡れた草の匂いがした。
「そういえば、今度、映画のチケットが取れたんだけど……」
郁也は少し口ごもった。彼の視線は水たまりの向こうに立つ野乃実に注がれていた。
「もしかして、この小説の映画化?」
野乃実が目を輝かせる。
「そう! それ!」
「えー! 私も観たいなー!」
野乃実は小さく跳びはねた。
「で、それでさ、姉ちゃんと行こうと思ってたんだけど、用事入っちゃったらしくて、それで良ければ――」
「あ、来た」
バスがこちらに向かって走ってくる。
振り返ると野乃実と目が合った。彼女は目を細めてにこりと口角を上げた。
雨はもう止んでいた。
最初のコメントを投稿しよう!