2014年、8月

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2014年、8月

「傘あるから関も入って行きなよ」 バケツをひっくり返したような突然の大雨が降ってきた昼休みに、学校から少し離れたこのドラッグストアから、スポーツタオルを頭に乗せただけで校舎まで走っていこうとしていた生徒を見かけて、高瀬は出口でそう声をかけた。 「いいんですか?ありがとうございます」 関はそう言うと、身体を少し縮めて高瀬の傘の下に遠慮がちに入った。ラグビー部の関は身体が大きいので高瀬の身長に合わせて腰をかがめ、小柄な高瀬は関が入れるように肘を伸ばしてさしていた傘を一段高く上げた。しかしそれでも関の頭は傘の下に入っているが、右半身は殆ど傘の外に出たままだった。 「身体はみ出てるから、もっとこっちに入ってこないと濡れちゃうよ」 高瀬は脇をキュッとしめて関の入るスペースを空けた。関は恐る恐る身体を中に入れる。高瀬は細身なのである程度余裕はあったが、それでも高瀬に触れないようにはみ出ている右半身を傘の中に入れるには身体を捻るしかなく、右後ろから高瀬を抱え込むような体勢になってしまった。これなら身体はそこまで濡れずに済むが、背負っている鞄が完全に傘の外に出ているので濡れてしまう。学校から少し離れたこのドラッグストアから先生の歩く速度に合わせて歩いていけば、校舎まで戻る頃には鞄の中の教科書類がずぶ濡れになってしまうだろうと関は思った。 「全部入った?」 「はい、これなら濡れません」 「よし、じゃあ動くぞ」 高瀬は足を踏み出した。途端にビニール傘に打ちつける滝のような雨粒の音で耳が満たされる。雨音以外何も聞こえない狭い空間に2人だけで隔離されているような感覚を覚えた。傘の中まで吹き込む横殴りの雨粒やアスファルトから跳ね返る飛沫に打たれて、身体はどんどんと濡れて冷たくなっていったが、身体の右後ろだけは関の体温の熱気が伝わってきて暑いくらいだった。 「関はいつもここまで来るの?みんなもっと学校の近くにあるコンビニ使う子が多いと思うけど」 「そうですね、コンビニには無くてここにしか売ってないもんがあって、それ買いに来てるんで」 関の目の前には高瀬の後頭部がある。先生の髪は細くて、女物みたいなシャンプーの匂いがする、と関は思った。そのどこかで嗅いだことのある甘い匂いが何の匂いなのかは思い出せなかった。 「先生は何しに来たんですか?」 「俺は頭痛薬を買いに来た」 「へぇー、教師と言えども、若手は色々と気苦労が多いんですね」 「いや、そう言うわけじゃないけどさ。先生方はみんな親切だよ。俺が偏頭痛持ちなだけで」 大学を卒業したてで今年この高校に着任したばかりの高瀬は実際気苦労が多くて、ベテランの教師達とうまくやっていくのに必死だったが、生徒にそんな所を見せるわけにはいかないので少し強がった。偏頭痛持ちというのは本当だったが、滅多に症状は出ない。関と歩幅を合わせて歩かなければいけないのであまり早くは歩けず、その間に革靴から雨が染みてつま先が冷たくなってくる。 「すいません、肩掴んでもいいですか」 捻ったままの体勢を保つのが段々キツくなってきた関はそう声をかけて、高瀬の右肩に左手を置いた。半袖のポロシャツ越しに触れる肩は思っていたよりも骨張っていて、半袖から覗く白い柔らかそうな二の腕に目を奪われた。男子校で周りに男ばかりしかいないから、高瀬のような華奢な人を見ると頭が勘違いして変になっているだけだ、と関は言い聞かせる。高瀬は、ポロシャツ越しに伝わる関の手のひらの大きさと、温度の高さに驚いた。触れられた右肩の感覚だけが肥大して、神経が集中する。身体の重心がそこに移動していくように感じた。高瀬は気付かれないように少しだけ首を右に傾けて、関の指先と自分の頬とを近付けた。関は高瀬のその動きを最初から最後までずっと目を離さず見ていた。自分の左手の手汗が滲んでいくのを感じた。 「暑いな」 独り言のようなボリュームで呟いた高瀬のその問いかけが、外気温の事を言っているのか、自分の手のひらの温度の事を言っているのかがわからず、関は雨音にかき消されて聞こえなかったフリをして、返事をしなかった。校舎までの距離はあと半分をきった。2人とも無言のまま歩を進め、それはアイスコーヒーに垂らしたミルクがコップの底に辿り着くまでの時間のように、ゆっくりと長くも感じたし、反対にあっという間のようにも感じた。 校門までたどり着いた時、さっきまでの雨が嘘のようにピタッと止んで、眩しいくらいの日差しがビニール傘を透過して差し込んできた。高瀬は目を細めた。手品のような天気の変わり身の早さに、2人は目を合わせて思わず笑ってしまった。こんなに近くでお互いの顔を見たのは2人とも初めてだった。高瀬は関の通った鼻筋とおでこにできている小さなニキビに、関は高瀬のアーモンド型の奥二重の目とよく見ると茶色い瞳に視線を集中させていた。 「ありがとうございました」 関はそう言うと、高瀬の肩に置いた左手をスッと下ろし、その指先は高瀬の二の腕に触れるか触れないかの距離を掠めた。そのまま教室へ走っていく関の後ろ姿を、高瀬は見えなくなるまで見つめていた。走るフォームがしっかりしていて、野生の動物を思わせた。傘の下では、焼けたアスファルトの匂いと、関の汗の残り香が混じっていて、高瀬はそれに包まれていた。関は走りながら、高瀬のシャンプーの匂いがココナッツの匂いだったことを思い出した。
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