2021年、8月

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2021年、8月

思い返してみれば7年前のあの日の出来事を境に高瀬の人生は一変してしまい、それは正に夕立のようだった。夕立はまるで人間を茶化すように短時間で大騒ぎをした後ぴたりと止み、夕立前と全く同じような天気に戻るけれど、その短い時間で地上の景色をガラリと変えてしまう。高瀬は当時大学の同級生と付き合っていて、実家にも遊びに行った事があった。その時にご両親にも会っていて、とても感じが良かった。高瀬は仕事が落ち着いたらそのまま結婚するものだと何の疑いも無く思っていたが、いつからかむくむくと湧き上がる自分の本当の気持ちに気付いてしまい、気が付けば抑えようも無い程に膨れ上がっていた。彼女に別れを告げた時、彼女は大粒の涙を流したけれど、高瀬の心は初めて鎖を解かれて手足を自由に動かせるようになった囚人のように晴々とした心地だった。それから高瀬は、自分がどんなタイプの男性が好きなのかを分析していき、SNSを利用して何人かの男性と身体を重ねたり、付き合ってみたりもした。何人か、と言うのは控えめな表現で、実際には2桁の人数と関係を持ったし、一晩だけの関係の相手も何人もいた。ただそのうちの誰とも良い関係性を築くことはできず、付き合ったとしても短期間で終わりを迎えてしまった。 夏のセールで服を何着か購入した高瀬は、百貨店の出口へ向かっている。最近は学校に着ていけるかどうかという観点で洋服を買うことが殆どで、私服と仕事着との境目が無くなってきていると感じる。着たいと思える服を買う事がめっきり減ってしまった。出口には人だかりができていて、抽選会か何かをやっているのかと思ったが、どうやら夕立が来て、みな立ち往生しているらしい。高瀬は傘を持ってきていなかったので、しまったと思った。 「傘持ってるので、先生も入っていきます?」 斜め後ろから話しかけられた声に振り向くと、そこには関がいた。留年していなければ既に大学も卒業しているはずの関は、昔と比べて髪型が今風のフェードカットに変わっているが、顔のあどけなさはそのままで、一目でわかった。 「関!久しぶり、今はこっちにいるの?」 「東京で働いてますが、今はお盆休みで帰省してるんです」 「そうか。少し太ったんじゃない?」 「恰幅が良くなったって言って下さい。俺ももう社会人ですからラグビー辞めて少し経ちましたし」 「でも表情が高校生の時と変わらないな、すぐわかったよ」 「先生こそ、時間止めたのかってくらい全く変わってなくてすぐわかりましたよ」 「高校生から社会人になるまでの7年間と、22歳からの7年間じゃ成長の度合いが全く違うから」 関は高瀬と会話しながら、改めて見て高瀬の変わらなさに驚き、シャンプーも変わっていないのか確かめたくて髪の匂いを嗅ごうとしたが、百貨店の一階は化粧品の匂いで溢れていて、ココナッツの匂いを嗅ぎ分けることはできなかった。 「じゃあ、お言葉に甘えて傘に入れてもらおうかな」 「いいですよ。先生には前に入れてもらった恩があるので」 高瀬は、自分だけでなく関もあの夕立の日の事を覚えていた事に心底驚いた。 「よく覚えてたな、そんな昔のちょっとした出来事」 「うーん、なんでだろう、でもずっと覚えてるんです」 関はそういうと照れ臭そうに歯に噛んでみせた。 「あの時背中のバッグが丸々傘から出てたから、教科書とか全部びしょ濡れになったんですよ」 「そうだったのか、それは気付かなかった、ごめん」 「いや、気付いてはいたんですけどね」 「気付いてたなら言えば良かったのに。それか鞄を前に抱えるとかさ」 「そう言われればそうなんですけど、何ででしょう、覚えてません」 「流石にそんなこと覚えてないよな」 お互い顔を見合わせて笑った。けれど関は一つ嘘をついていた。理由は覚えている。鞄を前に抱えたら、傘の中で高瀬との距離が遠くなってしまうと思ったからだ。しかし、あの日嘘をついていたのは関だけではなかった。高瀬は、関があの学校から遠いドラッグストアに通っているのを知っていた。あの日も関がドラッグストアに向かったのを見て、追いかけるようにしてドラッグストアに向かったのだ。 「関は今彼女とかいるの?」 「はい、一応いますよ。地元が同じで、実は彼女の実家に挨拶も兼ねて帰省してきてるんです」 「そうか、それはドキドキだね」 高瀬は時間の流れを改めて感じた。高瀬が誰とも関係性を築けずに過ごしたこの7年間で、関はしっかりと人生のステージを進めようとしている。自分もそろそろ進むべきかもしれない。 外の夕立はまだ止みそうにない。ただ一つ、この夕立の後には、全てが変わってしまうような予感が2人の心をよぎった。
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