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ーーー朝時雨が降り
ーーー春雨が降り
ーーー菜種梅雨が降った
そして、ついに空に入道雲が延び始める。
今日、朝の天気予報を聞いた私は息が詰まる思いだった。
「時雨さん。今日は夕立が降るそうですよ。
折り畳み傘を忘れないで」
彼はそう言って、下駄箱の上に赤い折り畳み傘を置いてくれた。
「もし、夕立が降らなかったらどうするの?」
私は玄関先で、彼に背を向けて問うた。
「降らなかったら?そのままにしたらいいんじゃないですか?」
彼はあっけらかんとそう言った。
私はそう言ってくれることに少しホッとして、一筋の望みをかけて、私は歩みを進める決心をした。
「ほんと?じゃ、絶対そうしようね」
「え、あぁ、はい」
「いってきます」
「いってらっしゃい、時雨さん」
振り返りたい気持ちは、約束を守るためにできなかった。
首が痛むほど、空を見上げ、目が痛むほどにスマホを見て雨雲レーダーを確認した。
同僚は何か気になることがあるのかと、心配してくれたが、
ーーーもしかしたら、今日、離婚するかもしれません。
などと、口が裂けても言いたくなかった。
けれど、私の願いも虚しく、今、空が灰色に染まっていく。
私は密かに、実家に隠れる決意をした。
きっと走れば、雨に打たれることなく、駅まで行けるし、実家に帰ったら、夕立が来たことなんて知らぬ存ぜぬを通そう。
それから、二人のことをまた先延ばしにして………
私は早足で会社の入口へと向かったが、時すでに遅し。
辿り着いた時には、天上の盆をひっくり返したかのような雨が降りつのった。
アスファルトから跳ねる雫が、私を打ち、まるで『約束を守れ』と私を責め立てているようで痛い。
しかも、こんなにも、雨が降り荒び、辺りが白くなってしまうほどに、見通しが悪い夕立の中、私は彼を見つけてしまった。
あぁ、別れがやってくる。
その別れは傘を振りながら、私の元まで走ってきた。
「あぁ、よかった。
時雨さん、結局、傘持って行かなかったでしょ?
だから、心配してたんだ」
旦那さんは、傘をちゃんと差して来ていなかったのか、両肩の半分以上は濡れているし、走ったせいか息は上がっり、ズボンの裾は泥に塗れている。
泣きたい気持ちをグッと堪えて、私は口を開いた。
「別れましょう」
彼から別れを告げられるのは、あまりも酷だった。だから、自分から切り出したのだ。
旦那さんは驚いた顔をして、その場から動かなくなった。
「あの…えーっと、り、りゆうを聞いてもいいかな?」
「だって、一度も好きだなんて言ってくれなかったじゃない!」
こんなことが言いたいわけじゃなかったのに、いつのまにか、私の口からはそう出ていた。
私だって、本当は「好きだって」言いたかったのだ。
どこにも行かないで。と言いたかったのに。
私の気持ちはいつだって、強い風に吹かれたように違う方向へと行ってしまう。
「え、時雨さんどうしたの?
なんで、急にそんな…こと…」
「だって、夕立が来たら別れようって言ったもん!!!」
彼は一瞬、目を開けたまま寝ているのかと思うほど、意識をどこかに飛ばして、視線を彷徨わせた。
「あ、あぁー」
そして、彼は一人納得したかのように声を上げた。
「え、あれ?あの約束ですか⁈
違います!違います!
あれは比喩ですよ。比喩!!」
彼は両手に持った傘を振り回しながら、必死に否定する。
「ひゆ?って何?」
「あることをわかりやすく説明するために、似ているものに置きかえることですよ……いや、でも、僕の場合は暗喩の方が正しいかもしれないし…いや、でも、何と表現したらいいのか……」
「何言ってるのか、わかんなーい!」
再び泣き出した私を彼はオロオロと慰める。
1年前の、一人取り残されたようだと、人生詰んだと、嘆いていた夕立のあの日よりずっと涙は私の頬に降った。
「あぁ、ごめんなさい。
僕は酔うとついつい小賢しい言い回しばかり使ってしまうようです。
まぁ、あの時のことをはっきりとは覚えていないんですが、『夕立が来たら』というのは、僕たちの間にどうしようもないくらい激しい雨が降るほどに、関係が悪化したならという意味です。
けして、夕立が降ったら、という意味ではありません。それだけは絶対です」
彼はハンカチを出して、丁寧に私の涙を拭ってくれる。
「ほんと?」
「えぇ、だって、あなたに傘を差し出すのに、ありったけの勇気を使いましたから」
「それって?」
「出会った時から、僕はあなたが大好きだということです」
彼は目を細めて、初めて会った時のように口の端に雫を溜めて、優しく笑った。
飛びついた私を抱きとめ彼はどしゃぶりの雨の中、彼は踊るようにぐるぐると私を回った。
そして、行き交う色とりどりの傘で人目につかないことをいいことに、私たちはキスをした。
まるで、映画のワンシーンのような特別な時間だった。
彼は私を抱きしめて、何がおかしいのかひたすらに笑っている。
「時雨さんは本当におもしろいですね」
「何よ、それ。
それと、ずっと聞こうと思ってたんだけど、何でしぐれって呼ぶの?」
「いや、だって時雨のように、降っては止んで、降っては止んでを繰り返して、表情が本当に豊かなんですよ。これ以上、あなたを表す言葉を僕は知りません」
なんだ、それ、喜怒哀楽が激しいって揶揄ってんじゃん。
私は悔しさのあまり、彼の胸を軽く拳で叩いた。
「ほら、ご覧なさい。
言った通り雨が上がりましたよ」
彼がそう言うので、空を見上げると、いつのまにか、雫は晴れ、雲の切れ間から橙色の光がさしていた。
「さぁ、帰りましょう。あかりさん」
彼はそう言うと、恭しく持ってきたコウモリ傘を開いた。
私は嬉しくなってその傘の中にぴょんと飛び込み、彼の腕を取った。
雨は降っていない。
空は明るい夕暮れ時。
それでも、私達は傘を差す。
相合い傘が、二人の始まりだから。
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